諸葛 亮(しょかつ りょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。徐州琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は蒯祺の妻、次姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。建安13年(208年)、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。孫権陣営は情勢観察のため劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」と問われ、諸葛亮は答えた、「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法公直(法正)が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。たとえ東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた(法正は建安25年(220年)に死去している)。劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず君が国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は言葉だけで実力が伴わない。故に重要な仕事を任せてはいけない。君はその事を忘れずにな」と言い残した。劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆・王朗・陳羣・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた。翌建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返った。魏はこの動きに対して張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが、偽作説が有力である。二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の郝昭の奮戦により、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している。食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、魏延は楊儀の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく沔陽に廟が建立された。魏の鍾会は蜀に侵攻した際、諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多く王子城父、韓信のような名将もいなかった。魏に対する北伐が成功しなかったのは天命なのだ」と評している。諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で、など様々に擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝にある。(詳しくは陳寿#陳寿への非難の項を参照)。前述のほか、後世に至るまでの評を挙げる。宋代には『説三分』とよばれる講談が民衆の間で人気を博した。講談の台本として元代に作成されたのが『三国志平話』である。その中で諸葛亮は豆を撒いて兵を作り、風を起こして雨を降らせるなど神仙として描かれている。また諸葛亮は農民出身とされた。小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである(このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない)。『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。『三国志』諸葛亮伝では、「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。諸葛亮の著作としてはもちろん「出師表」が最も有名である。漢詩などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして「出師表」の他には、李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが、現存していない。「後出師表」は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記した上で引用している。この文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲がすでに死んでいるという記述があるなどの疑念により、後世の偽作という見解が多い。また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して「八陣の図」(「八陣図」「軍勝図」「八卦の陣」とも)を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。諸葛亮は発明家でもあり、以下のようなものが諸葛亮の発明であるとされる。『三国志』諸葛亮伝にも、諸葛亮は連発式の弩(元戎)・木牛・流馬を開発したと記されている。なお、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという現地の風習を廃止させるため、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込んで人頭に見立てたものが「饅頭」であるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市諸葛鎮にあり、住民の多くの姓が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)が見つかるが、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である。張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。
出典:wikipedia
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