文室 宮田麻呂(ふんや の みやたまろ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。大納言・文室浄三の孫。備前守・三諸大原の六男。官位は従五位上、筑前守。承和6年(839年)に従五位上に叙せられ、承和7年(840年)に筑前守に任じられたが、承和8年(841年)正月までに解官された。この間、承和7年12月(841年1月)に新羅人・張宝高が特産品の朝廷への献上を目的に使人を大宰府に派遣してきたが、他国の人臣による安易な貢進は受け入れられないとして献上品の馬の鞍を返却するように朝廷から命じられている。この際、宮田麻呂は張宝高に絁(あしぎぬ)を贈って唐の物産を得ようとしたとみられるが、同年11月の張宝高の死去により失敗した。そのため、承和8年(841年)に渡来した新羅の廻易使・李忠がもたらした貨物について、李忠は張宝高の使人であることを理由に、宮田麻呂が没収しようとする。しかし承和9年(842年)になって、宮田麻呂による貨物の没収が朝廷に発覚し、大宰府官人の手で貨物は李忠に返還させられた。承和10年(843年)宮田麻呂は散位従五位上の官位にあったが、従者の陽侯氏雄から謀反を図っているとの告発を受けて、平安京と難波の邸宅から武器が押収され、謀反の罪を負って伊豆国への流罪となり、同様に子息の忠基(佐渡国)・安恒(土佐国)も流罪となった。なお、陽侯氏雄は告発を賞されて、特別に大初位下・筑前権少目に叙任された。以降六国史に宮田麻呂に関する記事はなく、配所で没したと思われるが、詳細は明らかでない。のちに宮田麻呂は無実であるとされ、貞観5年(863年)に神泉苑の御霊会で慰霊されている。同年、かつて宮田麻呂が近江国に所有していた家10区・土地15町・水田35町が勅により貞観寺に施入された。この謀反の冤罪に問われた事情は必ずしも明らかではないが、承和9年(842年)に発生し同族の参議・文室秋津も連座した承和の変の影響とする説、前述の新羅との貿易トラブルに関係するもの、さらには、藤原北家が瀬戸内海交易活動の独占を図る中で、国際交易にまで活動範囲を広げていた宮田麻呂を脅威に感じて抹殺した事件とする説もある。
出典:wikipedia
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