エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ(、1982年11月3日 - )は、ロシアの男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。2014年ソチオリンピック団体戦金メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝7回、グランプリファイナル優勝4回。グランプリシリーズ通算22勝。ロシア連邦功労スポーツマスター。ロシア人名愛称ではジェーニャ。名字はPLUSHENKOの他にPLYUSHCHENKOと表記されることもあり、オリンピックの際にはどちらも使われている。旧採点、新採点の両方でオリンピックメダルを手に入れた唯一の男子フィギュアスケート選手である。1987年2月25日、4歳のとき両親の故郷ヴォルゴグラードでフィギュアスケートを習い始める。7歳のときサマーラで行われた全ソビエト規模のノービス競技会クリスタルスケート で初優勝。競争相手は全員10 - 11歳の少年たちで、最年少での優勝だった。11歳で高名なコーチのアレクセイ・ミーシンに見出され、単身でサンクトペテルブルクへ移住。プルシェンコはこの幼少期の経歴ゆえソビエトシステムの最後の遺産とも言われる。ソビエト連邦など社会主義国では、オリンピックは共産主義の優位性を西側諸国に示す場として、プロパガンダに利用された。ソ連各地から選ばれた素質ある子供たちは、時に幼い頃から家族と離され、必要な全てを国から与えられ、優秀な指導陣のもと英才教育を施された。しかしこのシステムは1991年末のソ連崩壊によって瓦解。当時のロシア経済は混乱を極め給料の遅配も相次いだため、指導陣は転職ないし海外で働くことを余儀なくされた。また経営が立ちゆかなくなった訓練施設は次々売却されるなどした。プルシェンコやマキシム・マリニンらが所属していたヴォルゴグラードのリンクも、1993年に自動車ディーラーに売却され閉鎖された。2006年のトリノ五輪に出場した選手団がこのソビエト時代のスポーツ英才児教育で発掘された最後の世代であり、彼らが五輪後に第一線から退いたことが、トリノ五輪後のロシアの国際大会での成績低迷の原因とされている。当時ミーシンのグループは1994年のリレハンメルオリンピックで金メダリストとなるアレクセイ・ウルマノフや、のちに激しいライバル対決を繰り広げる事になるアレクセイ・ヤグディンも所属しているエリート集団だった。グループに加わった当初こそミーシンの関心も低かったもののここでも頭角を現しミーシンの関心を獲得。13歳になるとシニアの大会にも参加するようになる。初出場した1996年世界ジュニア選手権 では出場選手中最年少で6位入賞。翌年の1997年世界ジュニア選手権 では14歳で優勝。これは現在も史上最年少記録である。1997/1998シーズンからシニアの大会に本格参戦。ISUグランプリシリーズのスケートアメリカとロシア杯、また欧州選手権でも初出場で2位になるなど大健闘。長野オリンピック金メダリストイリヤ・クーリックの棄権により急遽初出場することとなった1998年世界選手権では、15歳にして3位表彰台にのぼり史上最年少メダリスト となるなど華々しいデビューを飾った。1998/1999シーズンからは主要な競技会で優勝を重ねるようになり、1999年世界選手権では前年度より1つ順位を上げ2位になる。1999/2000シーズンは欧州選手権まですべて優勝、ロシア選手権と欧州選手権で当時の世界王者ヤグディン相手に2連勝を果たした。だが、優勝候補の筆頭に挙げられて臨んだ世界選手権ではフリーで大崩れし、まさかの4位に終わった。翌2001年世界選手権では前回王者のヤグディンを抑え初優勝、その他のタイトルも総なめにした。勢いはこのまま続くかと思われたが、2001/2002シーズンのグランプリファイナルでヤグディンに敗北すると、これに危機感を抱いたプルシェンコチームは急遽フリープログラムをビゼーのカルメンに変更。約1ヵ月後に迫ったソルトレイクシティオリンピックのため猛練習を重ねプログラムを完成させる。しかしプルシェンコはこの練習により右足首を負傷した。迎えたオリンピック本番ではショートプログラム冒頭の4回転トウループで「まさかの」転倒、4位でフリースケーティングに臨むこととなった。自力優勝の可能性が消え背水の陣で臨んだフリーでは、4回転トウループ - 3回転トウループ - 3回転ループという超高難易度のコンビネーションジャンプに挑戦(3つ目のループはステップアウト)、また3回転アクセル -ハーフループ- 3回転フリップというこちらも超高難易度のシークエンスジャンプを成功させるなどして追い上げ2位に浮上、銀メダルに輝く。直後の2002年世界選手権は右足首の怪我の悪化を理由に欠場した。2003年に常に表彰台の1位と2位を争っていたライバルのヤグディンが引退すると、2003年世界選手権、2004年世界選手権を2連覇。独走態勢に入る。ただし2003年のグランプリファイナルでは、当時のルール下は2回までと決められていたコンビネーションジャンプを3回飛ぶという回数制限違反を犯し、まさかの準優勝となった。2003年夏に出演した日本のアイスショーで氷の溝にはまり半月板を損傷して以来、故障に悩まされてきたが、自国開催の2005年世界選手権では、ショートプログラムを終えた後かねてより痛めていた股関節の状態も悪化したため棄権。その後ドイツで鼠径ヘルニアの手術を受ける。これ以後、デビュー以来プルシェンコのトレードマークとなっていたビールマンスピンは封印された。万全とは言えない体調で迎えた2006年のトリノオリンピックでは、ショートプログラムで90点台をマークし、2位に10点以上の差をつけ首位に立った。フリースケーティングでも4回転トウループ - 3回転トウループ - 2回転ループを始めとする殆どの技を成功させ、出場選手の中でただ一人160点台をマーク。総合得点で2位に30点近い大差をつけるなど、圧倒的な実力で金メダルを獲得した。2006/2007シーズンは競技には出場せず休養することを宣言。この年からアイスショーを活動の中心に移す。2007/2008シーズンには競技への復帰を発表し、2007年7月にドイツで以前から痛めていた左膝の半月板の手術を受けた。11月からはコーチのミーシンらと本格的な訓練を開始したが、術後の経過が思わしくなかったためこのシーズンの復帰は断念。ショーを中心に活動した。2008年夏には再手術が予定されていたが、血液循環の治療が一定の効果を上げた事と、復帰がずれ込むことを危惧したため回避。6月から8月までミーシンチームのサマーキャンプに帯同し、フィジカルトレーニングを中心に最新の採点基準に合わせた技術習得に励んだ。8月にはロシアスケート連盟のテストスケートに臨んだが、古傷の悪化で再びドイツで治療を受けこの年の復帰は断念した。2009年春から議員やプロスケーターとしての予定を整理。アマチュアアスリートの生活に戻り、1日に2回の氷上練習と1回のフィジカルトレーニングを再開。夏には恒例のミーシンのサマーキャンプとロシア代表のテストスケートにも参加。2009年9月9日、サンクトペテルブルクフィギュアスケートアカデミーで開催された、サンクトペテルブルク杯第一試合に出場。ISU非公認の小さな国内地方試合での参考記録ながら、ショートプログラムで95.05点、フリースケーティングでは164.09点、総合259.14点をたたき出し、アマチュア競技に復帰。10月22日からモスクワのメガスポルトで開催された2009年ロステレコム杯では、ショートプログラムで必須要素の「ステップからの3回転」を2回転にするミスのため82.25点、しかしフリースケーティングでは大きなミスもなく158.40点を獲得、総合240.65点で優勝。12月24日からサンクトペテルブルクで開催された2010年ロシア選手権でも、同月上旬に膝の古傷を再発させ一時は引退を考えたほどの状態でありながら、ショートプログラムで100.09点、フリースケーティングで171.5点、総合271.59点(ISU非公認試合ゆえ参考記録)で優勝。2010年1月の2010年ヨーロッパフィギュアスケート選手権ではショートプログラム91.30点で自身の持つ世界最高得点を更新、フリースケーティグ164.36点、総合255.39点で2位のステファン・ランビエールに16.85点もの点差をつけ6回目の優勝。2010年2月のバンクーバーオリンピックでは、ショートプログラムで90.85点を獲得し首位に立ち、続くフリースケーティングでもマイナスが付いたのはトリプルアクセルのみという2009/2010シーズンで最もクリーンな演技内容を見せたが、アメリカのエヴァン・ライサチェクに1.86点の逆転を許す。これによって総合256.36点を獲得、1位のライサチェクとはわずか1.31点の鼻差で、銀メダルに終わった。2010年初夏にはドイツで競技続行のためアキレス腱付近に出来たのう胞の除去と左膝の半月板清掃という2つの手術を予定していた。5月上旬に医師と面談を行い、のう胞は注射針で体液を抜き、両膝はこれまでと同様に関節内への注射で対処、そのほかに脊椎の神経を特殊な針で焼く治療法を採用。バンクーバー五輪で首位に立ったショートプログラムの直後に、演技構成点のトランジション(つなぎ部分)の項目で他の6人のジャッジと比べて極端に低い点数をつけた3人のジャッジがいることに抗議するようロシアスケート連盟に訴えた。このときトランジションの項目では9名の審判の内、6名が7.5 - 8.75の点数を付けているのに対し、3名は5.0 - 6.0と上位選手ではみることが稀な低得点を付けている。しかし、ロシアスケート連盟はこれに抗議はしないと決定。これは五輪前のジャッジのメールミーティングでアメリカ人ジャッジのジョゼフ・インマンが「『自分達はトランジッションのことはあまり考えていない』と自らトランジッションが無いことを認めている選手がいるが、こういう場合、我々ジャッジはどう判断すればいいんだろう?」という話題を出していたことを、欧州メディアが「北米によるロビー活動だ」と報じスキャンダル化したことに起因している。プルシェンコはショートプログラムで出場選手中唯一4回転トウループ-3回転トウループを成功させ、その他全ての要素も成功またはレベル3以上でそろえたが、3回転までの構成にした2位以下の選手たちとの差はわずかだった。続くフリーでも4回転トウループ-3回転トウループを成功させ、ショート同様スピン、ステップでもレベル3以上を獲得し2位となった。プルシェンコはこの結果、特にショートプログラムでの点差に関し「自分のショートプログラムは完璧だった」「このわだかまりは一生消えない」「ソルトレイクシティオリンピックを思い出しましょう」と不満を述べている。タチアナ・タラソワは、フリースケーティングに関しては、4回転-3回転の連続ジャンプを成功させたとはいえ精彩を欠いたプルシェンコの演技がライサチェクの演技より劣っていたことは認めるものの、ショートプログラムで3回転-3回転しか跳べなかったライサチェクや高橋大輔とほとんど差の無い点数しか出なかったことを批判した。2010年3月に行われた世界選手権を怪我を理由に欠場した後、一旦受理されていた本人主催アイスショーへの出演許可を再度取得しなおすよう国際スケート連盟より求められた。しかしショーの前日という突然の要請だったため、ロシアスケート連盟からの再承認は得られず、ショーを無許可のまま決行。そのため国際スケート連盟は6月に同選手のアマチュア競技会出場資格を停止した。処分通達から21日以内にローザンヌのスポーツ仲裁裁判所に異議申し立てをすることも出来たが、2014年に自国ロシアで初めて開催される冬季五輪への出場を目指しているため、国際スケート連盟と全面的に争うことは望まなかった。そのため処分は7月23日に確定された。その後、資格回復を求める要望書をロシアスケート連盟と国際スケート連盟に送り、約1年後の2011年6月に資格は回復された。しかし膝と背中の古傷が悪化したため、半月板切除手術と背骨にカテーテルを通して神経を焼く手術を行いリハビリ。2011/2012シーズンのグランプリシリーズは準備が間に合わないだろうとのことで、出場しないことを決定。2011年12月24 - 27日開催のロシアフィギュアスケート選手権で復帰。非公式ながらショートプログラム、フリースケーティングともに1位で優勝。2012年1月のヨーロッパ選手権では予選1位、ショートプログラム2位、フリースケーティング1位で7度目の優勝を果たした。2012年2月23日にミュンヘンで膝半月板の再手術を行った。同時に手術する可能性のあった椎間板ヘルニアは温存療法で対処することとなったが、リハビリのため3月の世界選手権には出場できなかった。2012/2013シーズンには2013年ロシア選手権(2012年12月24 - 28日)から参加、三度目の競技復帰と通算10度目の優勝を果たす。翌2013年1月21日から開催のヨーロッパ選手権には、大会開始の2日前に出場を決定。しかし公式練習中に背中から激しく転倒、元々の持病だった椎間板ヘルニアを悪化させた。そのためショートプログラムでは冒頭のトリプルルッツのミスのみならず、2004年以来失敗したことのなかったトリプルアクセルでは麻痺した足で着氷をコントロールすることが出来ず転倒、6位に沈んだ。フリースケーティング滑走順抽選前に棄権を発表すると、1月29日にはイスラエルのテルアビブに飛び、31日に緊急で潰れた腰椎の椎間板を人工の代替品と取り替える置換手術を受けた。2013年2月現在イスラエルの病院でリハビリ中。練習再開まで6ヶ月かかるという見通しも一部で報じられたが、本人とコーチのソチ五輪出場の意向は変わらなかった。2013/2014シーズン、ボルボオープンカップで競技会に復帰し優勝。ロステレコム杯は膝の怪我のために棄権。ロシア選手権では同一ジャンプの跳び過ぎの違反もあり、16年ぶりに優勝を逃し2位となる。試合直後のインタビューでは「代表の座は若手に譲る」と答えたが、後にその考えを一転し、自身が五輪代表に選ばれるべきと主張した。後日行われたテストスケートにて正式に4度目となる冬季五輪への出場を決めた。ソチオリンピックの団体戦では現地時間2月6日にSP2位、2月9日にFS1位で男子シングルでの1位のポイントを獲得。フィギュアスケートでは史上初の4大会連続メダル獲得となった。中3日空けて個人戦では現地時間2/13にSPの第2グループの第1滑走順(全体では7番滑走)として直前6分間の練習に登場したが、その際トリプルアクセルの着氷で腰を痛め、残り時間は腰を両手で押さえたままであった。第2グループが開始され、名前をコールされたプルシェンコは演技を開始せず審判の元へ近寄り、棄権を告げた。その後、観客に両手を挙げて挨拶し、正式に棄権がコールされるとリンクをコーチ・関係者に支えられながら退場した。プルシェンコの棄権について、棄権直後に識者・関係者は次のようにコメントしている。カート・ブラウニングは「素晴らしいキャリアの最後が、総立ちの拍手に囲まれてのものでなくて残念だ」と話し、イリーナ・ロドニナは「スポーツマンシップを欠く行為だった」と批判した。テレビ解説者のチェルダンツェフは「すべて仕組まれていたように感じてしまう」とコメント。このことにより一時ロシア国内で批判が起こった。しかし、ミーシンコーチは「あまり批判しないでほしい。勝利したことのほうが多い」と弁護し、ロシアスケート連盟は「プロスポーツに故障はつきもの。なぜこんなに批判が多いのかわからない」と説明した。プルシェンコの個人戦棄権については以前から計画的棄権説もささやかれていた。ロシア国内選手権で2位になった直後のインタビューでは「団体戦を選び、個人戦はロシア選手権優勝者に譲る」という内容の発言をし、マスコミからは「プルシェンコは五輪団体戦のルールを把握していない」という点を指摘されていた。その後ロシアフィギュアスケート連盟のワレンティン・ピセエフ理事が「(プルシェンコは)感情に駆られて(認識を誤った)」と憶測し、後にプルシェンコ自身も発言を修正し「個人戦にも出場するつもりである」ことを表明した。2月15日、競技から引退することを発表した。2014年3月に脊椎手術を成功し、自身にとって5度目のオリンピックとなる平昌五輪への意欲を表明し「メダルも狙っています」と述べた。2018年ロシア選手団平昌五輪参加候補者名簿にプルシェンコは承認された。実現すればその時にプルシェンコは35歳となる。元アイスダンス選手のイリヤ・アベルブフはプルシェンコの2018年参加について懐疑的な見方を示し、「復帰の意思があるならば競技会に参加すべきである。ロシアの若手にとってはプルシェンコが既に大きな重圧となっており、そろそろ身を退くときでは」と述べている。日本のテレビ番組炎の体育会TV 2014年5月3日、11月1日、11月15日、本田望結と共に出演している。2014年のロシア選手権には出場しなかったものの、EXには登場した。2015年には、メダルウィナーズオープンに出場し、優勝。2015-2016シーズンは背中の怪我のために欠場を余儀なくされた。2012年ヨーロッパフィギュアスケート選手権を制したことでカール・シェーファー以来76年ぶりの7度以上ヨーロッパを制した男子シングル選手になった。またソチオリンピックでの団体戦金メダル獲得によって、ギリス・グラフストロームが1920年 - 1932年に達成して以来82年ぶり、史上2人目の4つ以上のオリンピックメダルを獲得した男子シングル選手になった。バンクーバーオリンピックでは金メダルこそ逃し、ディック・バトン以来58年ぶり史上4人目の五輪連覇の夢はかなわなかったが、3シーズンもの休養期間を経て復帰に成功した選手はプルシェンコが初であり、名前のあがったいずれの選手も半世紀以上前に活躍した選手である。2004年世界選手権まで使用されていた旧採点方法式で満点にあたる「6.0」を最も多く獲得した選手である。16歳で初めての6.0を出して以来(1998年NHK杯:男子最年少記録)、新採点方式に移行するまでに技術点で5つ、プレゼンテーションで70、計75もの満点を獲得した。7歳で初めてのトリプルジャンプを降り、12歳までにアクセルを含む6種類の3回転ジャンプを修得。初めて4回転を降りたのは14歳で、試合に4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションを入れるようになったのは15歳から。「4回転からの3連続コンビネーションジャンプ」を武器としていた。フィギュアスケートを始めて間もない頃、プルシェンコはテレビでデニス・ビールマンの演技を目にし言葉に出来ないほどの衝撃を受けた。すぐに専門家から正しい開脚の方法を教わり毎晩母親とストレッチを始め、ビールマンスピンとビールマンスパイラルを修得。一般的に女子より筋肉量が多く体が硬い男子、とりわけシニアでこの技を取り入れたのはプルシェンコが初めてだった。ドーナツスピンを演技に取り入れた最初の男子選手でもある。こちらもビールマン同様高い柔軟性を要する技術のためシニアの男子で行う選手は殆どおらず、プルシェンコが先駆者となった。2005年に手術をして以来これらの高い柔軟性と技術を必要とするスピンは封印されていたが、2010年の夏以来再びドーナツスピンとハーフビールマンを演技に取り入れるようになった。トリノオリンピックのショートプログラムのサーキュラーステップでは、驚異的な速さと細やかなエッジワークで最高難度のレベル4(GOE加点2.14)を獲得、フリースケーティングのサーキュラーステップでもレベル4を獲得した。トリノオリンピックにおいてステップでレベル4を獲得した選手はプルシェンコ唯一人、また2005/2006シーズンを通してステップでレベル4を獲得したのもプルシェンコと高橋大輔 だけだった。2007年3月にサンクトペテルブルク立法議会選挙に中道左派の第四党公正ロシア・祖国・年金・生活党から出馬し当選。7月には2014年冬季オリンピックのソチへの招致運動にも積極的に参加し開催地決定に貢献したが、競技続行にあたって議員活動が妨げになるとして議会へは殆ど出席しておらず「議会に出ない議員、商業活動をする議員のうちの一人」として党内外から批判の声もあがっていた。バンクーバー五輪後には「私は議員を辞め政治からは離れスポーツに専念した方がいいと思う」 とも述べ、任期終了を待たず早期に辞任することも噂されていた。2010年12月にはソチ五輪が終わった後ならば下院選に出馬する可能性も否定しないが今の目標はソチ五輪だと発言している。2011年12月2日、4日に行われるロシア下院選を前に公正ロシア党と政治からの離脱を正式に表明。スポーツに専念しいかなる政党にも参加しないと述べた。ウラジーミル・プーチンの支持者で2011年12月2日にはTwitter上で大統領選での支持を表明。プーチンもプルシェンコに対してバンクーバー五輪後に「あなたの銀メダルは『金』に値する」と電報を送り、2012年5月7日にはクレムリンで行われた大統領就任式にも招待するなどしている。1982年11月3日、ソビエト連邦ハバロフスク地方のウルガルで、大工の父ヴィクトルと母タチアナの長男として生まれる。6歳年上の姉がいる。両親は出稼ぎの鉄道建設労働者で一家はソルネチヌイにあった木造の貨物列車を改造したトレーラーハウスで生活していた。一般のロシア人と比べても決して裕福とはいえない暮らしだったが、家族の絆は強く特に母親とは大変深い愛情で結ばれている。生後9か月で走り出すなど運動神経の発達した子供だったが、虚弱体質だったためシベリアの過酷な気候に耐えられず、1歳3カ月の時に肺炎にかかると数か月入院。発熱の続く息子の健康を案じた両親は1985年の夏に気候の温暖な故郷ヴォルゴグラードへ戻ることを決断。4歳になると医師の勧めもあり体質改善の一環でフィギュアスケートとロシア民族舞踊を習い始めた。当初はレッスンに通うためトロリーバスに乗っても、3駅と進まないうちに具合が悪くなり何度も途中下車しては母親を心配させたが、2つの習い事を続ける内に体は鍛えられていき以前のようにすぐに体調を悪化させる事はなくなり、学校でも授業中じっと座って居られず動き回っていたずらをするような活発な子供になった。間もなくスケート、ダンス、どちらの分野でも才能があることが認められ、民族舞踊の教師たちは「スケートをやめダンスに専念しなさい」と言い、スケートの教師たちも「ダンスをやめスケートに専念しなさい」と言い、レッスンの時間を取りあった。プルシェンコは自らの意思でスケートを選んだ。1993年、ソ連崩壊の煽りを受け地元に一つしかないスケートリンクが閉鎖される。両親はこれを機に息子に普通の小学生の暮らしをさせようと考えたが、当時のコーチ、ミハイル・マコヴィーエフはサンクトペテルブルクのアレクセイ・ミーシンの元へ行くよう勧めた。まだ幼い我が子を手放したくない両親は反対したが、マコヴィーエフは有望選手のスポーツキャリアを終わらせる権限は親には無いと強く説得。また両親は息子のスポーツへの情熱を知り彼をミーシンに託す事に同意した。11歳で単身サンクトペテルブルクへ移住。昼間から酒や薬や賭け事に溺れる不特定多数が出入りする共同アパートの一角で生活した。隣人女性は子供の同居人に構わず男たちを部屋に連れ込んだ。見かねたミーシンは自分のアパートや自宅、振付師の家に彼を住まわせた。それまでの栄養状態が悪かったこともあり体格が悪かった当時のプルシェンコの印象を、ミーシンは「痩せっぽちで脂のない緑色のチキンのようだった」と語っている。1年後に母親がやって来て二人で暮らし始めるも母親にはサンクトペテルブルクでの労働許可がなく、一家の稼ぎ頭の一人を失ったプルシェンコ家は更に困窮を極め日々の食べ物にすら事欠くようになった。14歳で世界ジュニア選手権を制すと以後は一家の稼ぎ頭になった。 16歳になると以前から貯めていた賞金を使い、家族で暮らすためのマンションを購入。離れて暮らしていた父親と姉夫妻をヴォルゴグラードから呼び寄せた。このような決して順風満帆とは言えない生い立ちながらも本人は至って明るく陽気な性格で知られる。アイスショーやエキシビションでは女装 や着ぐるみ でパフォーマンスを見せたり、トム・ジョーンズの"Sex Bomb"に合わせ、偽の筋肉が縫い付けられた肌色の襦袢と金色のビキニブリーフだけという滑稽ないでたちでストリップダンスを披露するなど、奇抜な演技も楽しげにこなす。1998年にペトログラードスキー区()にある第91番学校を卒業。2000年にはミーシンが教授をつとめるレスガフト名称サンクトペテルブルク国立体育アカデミーに入学し2005年に卒業(専攻:フィギュアスケート)。2004年からサンクトペテルブルク国立技術経済大学()観光サービスマネジメント学部で校外生として学び2008年に修業。ロシア連邦軍における階級は上級中尉〔中尉〕()。ただし立法議会議員に当選したため現在は予備役。2005年6月18日にサンクトペテルブルクの著名実業家の娘マリア・イェルマークと結婚。翌2006年6月15日には長男が誕生する。当初クリスチアン()と名付けられたこの男児はマリアの独断でイェゴール・イェルマーク()に改名された。マリアとの夫婦関係は結婚3か月目で既に破綻しており、2008年1月に正式に離婚が成立。2009年9月12日に人気歌手ジーマ・ビラーンのプロデューサーで実業家のヤナ・ルドコフスカヤ()(1975年1月2日 - )と再婚。2008年5月にはビラーンとルドコフスカヤのためバックダンサーとしてユーロビジョン・ソング・コンテスト2008に参加。ロシアチームの優勝に貢献。2013年1月6日にはルドコフスカヤとの間に男子が誕生。アレクサンドルと名付けられた。車はアウディR8をはじめ数台保有。バイクはヤマハ・YZF-R6やBMW・S1000RR 等を所有、かねてより危険なのでやめるようコーチから注意を受けても手放さなかった。かなりのスピード狂で車でもバイクでも200数十キロ以上出して走ると度々発言している。7歳で出場した競技会で優勝賞品として携帯ゲーム機を貰って以来の愛好家。プレイステーションのサッカーゲームがお気に入り。その他、PSPも保有している。コーチから何度注意を受けてもパソコンで遊ぶのをやめなかった。PC版の『コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア2』(Call of Duty: Modern Warfare 2)のプレーヤーであることも自宅撮影された写真によって確認されている。基礎練習に取り入れている。11歳のとき師事していたマリインスキー・バレエの女性振付師から「フィギュアスケートの代わりにバレエをやらないか」と転向の誘いを受けたが、母親に相談し真剣に悩んだ末に断った。ミーシンは教育のため生徒たちを劇場に連れて行った。現在もプルシェンコは時間があると劇場に足を運びバレエやオペラを鑑賞している。ボリショイ・バレエのニコライ・ツィスカリゼらや、オペラ歌手との親交もある。スポーツ専門の振付師を起用する選手が多い中、プルシェンコのプログラムの殆どはバレエを本業とする振付師によるものである。一例を挙げると「サンクトペテルブルク300」はシェミャーキン版「くるみ割り人形」 の振り付けをしたキリル・シモノフの作品であり、「ニジンスキーに捧ぐ」はマリインスキー劇場のソリスト兼振付師のユーリ・スメカロフが手掛けている。その他にもマリインスキーやボリショイバレエなどの専門家と仕事をしており、元ペルミバレエ団バレエマスターのダヴィド・アヴディシュとも長年タッグを組んでいる。好きな演目は「くるみ割り人形」と「ジゼル」。アイスホッケーやサッカー、ビリヤード、テニス、ペイントボールなどスポーツ全般を愛好。テニスは息子2人がプレーヤーであるミーシンから手ほどきを受けた。サッカー好きでも知られショーの最中には共演者たちと草サッカーに興じている姿も見られる。イチゴ、ミカン等のフルーツ、チーズケーキ、アイスクリーム、寿司、しゃぶしゃぶ等の日本料理、母親が作ったフライドチキン、ボルシチとペリメニ。十代の頃はジュエリーの蒐集に凝っていたが最近はファッションや腕時計に興味が移行。好きなブランドはグッチ、ルイヴィトンなど。腕時計は店を開けるほどのコレクションを持っており、2012年にはスポンサーであるユリスナルダンから本人がデザインに関わったChampion's Diver Plushenko Limited Editionが発売されている。基本的に犬好きだが、猫やその他動物は何でも好む。1998年頃にラーリャという名のペルシャ (ネコ)を飼っていた。2001年からゴールデンと名づけたアメリカン・ブルドッグを飼っていたが2010年末に12歳で死去。2003年頃はヨークシャー・テリア2匹も飼っていた。2007年末には雄のブリティッシュ・チンチラ(猫)を飼いはじめプーフリク(ぽっちゃりした、小さくて太っている、丸々した、というような意味)という愛称をつけ溺愛。記者会見でも言及したり自身のサインにイラストを描くこともある。同時期に購入した雌のリャーシカは、2010年8月に3歳で突然死 Плющенко лишился любимой кошки // KP.RU。2010年末からジャックと名づけたジャック・ラッセル・テリアを飼い始めた。刃物収集も十代からの趣味。一時はやめていたが最近復活。ロシア式サウナのバニャを始め風呂をこよなく愛しており、ミーシンとはプライベートでも裸の付き合いをしている。アイスショーや合宿などで海外遠征した際には現地のサウナへ足を運ぶことも多く、日本にも行きつけのサウナがある。日本では、「プル様」という愛称で呼ばれることがある。5歳のとき自らの意思で両親を説得し洗礼を受けて以来の熱心な正教会信徒。信仰については「個人的なこと」として語ることは殆どない。妻のルドコフスカヤによると複数の聖堂に多額の寄付も行っている。2004年頃からホテルチェーン経営に興味を持っており2008年9月には観光ビジネスの学位を取得したが、元義父の実業家と共同で進めていたホテルプロジェクトは離婚によって破談となった。2012年現在は引退後は指導者の道を歩みたいと述べ、ミーシン不在時に後輩たちの指導をするなどアシスタントコーチとしての活動も開始。またフィギュアスケート環境の整備にも関心を抱いており、サンクトペテルブルクに学校教育機能と寄宿舎を備えたスポーツ学校を設立することを長年の夢としている。2008年末にはアルメニア共和国の首都エレバンに現地の国家予算から3割の資金援助を受け運営される私立のフィギュアスケートアカデミーを開設することを発表していたが、これは復帰への集中のため延期されている。
出典:wikipedia
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