博多 華丸(はかた はなまる、本名:岡崎 光輝〈おかざき みつてる〉、1970年4月8日 - )は、日本のお笑い芸人であり、お笑いコンビ博多華丸・大吉のボケ担当、相方は博多大吉。福岡吉本での活動を経て、2005年からよしもとクリエイティブ・エージェンシー(東京吉本)所属。福岡県福岡市早良区出身。土建業を営む一家の長男として生まれる。福岡市立高宮中学校・福岡大学附属大濠高等学校卒業、推薦入学で福岡大学工学部へ(後に中退)。なお、在籍していた落語研究会での高座名は「福々亭さろん」である。旧名は鶴屋 華丸(つるや はなまる)、福岡吉本の元職員で占いに詳しい人物に相談したところ、「博多華丸」に改名するように言われ、コンビ名も博多華丸・大吉に改名。福岡でそこそこ売れていたが、同郷のカンニング (お笑いコンビ)やヒロシが、東京で売れたこともあり、2005年より拠点を東京に移し、神奈川県横浜市に在住。同年12月以降開催されたR-1ぐらんぷりの予選に初エントリーし、決勝に進出。決勝では児玉清のモノマネ芸を披露し「R-1ぐらんぷり 2006」で優勝。華丸は、2000年に短期間ではあるが吉本新喜劇に留学していたことがある。主な愛称は華丸。一部のファンや芸人からは本名から岡崎さんと呼ばれている。岡崎さんと呼び始めたのは雨上がり決死隊の蛍原徹であり、そのことに華丸本人は感謝しており、家族からも喜ばれている。『アメトーーク』では「ネギ芸人」や「ポテトサラダ芸人」、「油揚げ芸人」などの飲食芸人に毎回出演しており、「そこだけが唯一、相棒の大吉先生に勝ってるとこ」として食べ物へのこだわりが強く、自身の結婚式も福岡市内の料亭で挙げた。福岡ソフトバンクホークスと、アビスパ福岡のファン。ホークスの選手とは福岡を拠点に活動していた頃から公私共に交流が深く、2011年の日本シリーズでホークスが優勝した際には祝勝会のビールかけにゲスト参加した。キャッチボールは、左投げ。かつては、ホークスが福岡に来て以降も当時の福岡吉本の所長に半強制的にホークスファンに変えられるまでは広島東洋カープのファンであった。高校時代には「月刊カープファン」を予約購読しており、自らの芸能界デビューと同年にプロ野球デビューした前田智徳については、2013年現在でも「大きな声では言えませんが 僕が一番好きな選手は 前田です」と述べている。夫人とは、華丸が中洲の居酒屋でアルバイトをしていた際に客として来た縁で知り合い、1998年に結婚。2人の娘がおり、次女は岡崎百々子として女性アイドルグループ「さくら学院」に所属。なお、かつて『アメトーーク』の「娘デレデレ芸人」に出演し、娘好きをアピールしていた(2012年3月15日放送)。福岡での活動中から児玉清のモノマネを披露していた。2005年11月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』内のコーナー「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権6」に出場。児玉清のモノマネで優勝した。12月29日に放送された「全国大会」でも児玉清のモノマネで再度優勝し、賞金100万円を手にした。2006年はR-1ぐらんぷりに出場し児玉清のモノマネ(あいうえお作文「あ行」から「た行」)で優勝、トロフィーと賞金500万円を獲得した。2006年9月3日放送の「アタック25芸能人大会」で児玉と初共演した。児玉の物まねとして、2007年8月25日に行われた日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)1部・川崎フロンターレ対ガンバ大阪戦で川崎が行った集客PRキャンペーン「アタック!25日」に登場した。福岡市にもJリーグクラブ・アビスパ福岡があり、その応援もしている華丸は川崎からの依頼にためらったものの、この年は福岡が2部におり、川崎とは直接対戦しないので出演を決めたと自らのブログで説明した。児玉に対しての敬意として、「アタックチャンス」の宣言の際、児玉は右手を用いているが、華丸は左手を用いている。2011年5月16日、児玉が胃癌で死去した際に、自身が偽物であることに由来し、また児玉本人への敬意の表れでもあると言った。先述の「アタック25」に出演した際のみ、児玉自身の提案により児玉・華丸ともに右手での宣言が実現した。5月21日に営まれた児玉の葬儀には大吉と共に参列した。児玉亡き後の物まねについては、「以前(児玉から)『そろそろいいんじゃない?』と言われた。怒っていた様子ではなく、そろそろ新しいことに挑戦しなさい、という意味だったのだと受け取った」として、封印も考えているとした。
出典:wikipedia
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