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岡田茂 (東映)

岡田 茂(おかだ しげる、1924年3月2日 - 2011年5月9日)は、日本の映画プロデューサー。東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。また、2008年4月より東京急行電鉄取締役を務めた。東映"中興の祖"で、松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。広島県賀茂郡西条町(現東広島市西条)出身。長男は、映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『実録三億円事件 時効成立』などで知られる元俳優で現東映会長の岡田裕介。長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子。中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた。旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)では柔道に熱中。卒業後は旧制広島高校(現・広島大学)に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のちシナリオを読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を首席で卒業、1944年東京帝国大学経済学部に入学するも待ち構えていたのは学徒出陣。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就いた。当地はグラマンに爆撃され宮城県古川町(現在の大崎市)に疎開。1945年8月15日、終戦を告げる昭和天皇による玉音放送を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した。終戦後復学。東大経済学部の学友会である経友会を、日本共産党が牛耳ろうとするのを猛者を率いて大学の左傾化を阻止した。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることを理不尽だから立ち上がったとしている。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなどして、右も左もないと言われている。木暮剛平らが同期の親友。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。最初は小学生からの幼馴染今田智憲の紹介で、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった東横映画社長・黒川渉三に会い、永野護→桜田武を紹介してもらい日清紡績への就職を希望していた。しかし黒川から「女子工員の管理しかないようなつまらない商売はやめておけ、これからは娯楽産業だ。中でも映画だ。俺は映画会社を作る。お前はそこに就職すべきだ。『鶏口となるも牛後となるなかれ』だよ、岡田くん」と誘われ、マキノ光雄、伊藤義、浅岡信夫らにも激しく説得された。その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は旧満映系の映画人を中核として、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。1947年、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められたという。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。翌1948年、24歳で製作主任に昇格。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり 会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って1950年、映画は完成。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て当時では最高の大ヒット、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが 当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され書記長。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任。1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京撮製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった。1951年の『風にそよぐ葦 前後編』はクレジットにないが岡田のプロデュース作で、東映東京撮影所の第1作。劇場があまりないため東宝系の日劇で封切った。当時東映の幹部が東宝から引抜きに遭い、岡田も誘われた。同年プロデュースした『八ツ墓村』は同小説最初の映像化。1952年、京都大学法学部卒ながら、全学連で暴れていて大川社長以下、全員が反対した山下耕作を入社させる。山下は入社するやすぐ組合運動を始めた。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。1940年代後半の東宝争議で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した。当時のNHKのラジオドラマで人気だった『新諸国物語』の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太郎主演の『笛吹童子』シリーズ、東千代之介主演の『里見八犬伝』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画に出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した。1956年には年間配給収入でトップとなった。1955年、アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長として“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた。また監督を目指して入社してきた日下部五朗を「体がでかい」という理由で無理やりプロデューサー修行させる。1960年京撮所長。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。北大路欣也と松方弘樹を高校卒業と同時に入社させた。1961年、吹き替え・スタントマンの重要性に気づき、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。1962年取締役東京撮影所長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。佐伯孚治、鷹森立一というベテランを監督デビューさせた反面、当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、深作欣二、佐藤純彌、降旗康男や新東宝から引き抜いた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治ら若い才能を抜擢した。また、日活にいられなくなった井上梅次を誘い『暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう。石井輝男は「当時は岡田さんが最高潮で、企画会議でホン(脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さんの一言で製作が決まって、会議なしという感じでした」と述べている。ギャングシリーズを開拓したものの「そもそも日本にギャングなどいない」と 東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画 路線に転換させる。日活、大映、東宝など他社も追随した。他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに土曜深夜のオールナイト興行という上映方式を組み 観客が押し寄せ、任侠映画は70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした。東宝、松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの。『任侠映画』と後に手掛ける『実録ヤクザ映画』抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥物語』など、任侠映画、東映ポルノ/エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである。『大奥物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「物語」という活字を多用した。「今ではどこの企業でも部外秘の書類にというハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥物語』はブームを呼び、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり エッセンスは受け継がれ 現在もテレビドラマ等に繋がる。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化。東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で、若山富三郎を『極道』シリーズで、そして『不良番長』シリーズで梅宮辰夫を売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。本作は京の廓の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ。内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画。1964年、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。岡田は反対したが大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作り大失敗。この時撮影所に量産のため、臨時雇用の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた。大川に全権委任され、揉めに揉めたものの大リストラを断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした。また年間の製作本数を100本から60本に減らした。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る。京撮で製作された任侠映画第一作が1964年高倉健の主演作『日本侠客伝』。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや東映動画へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った。大監督や大スターも受け入れてくれた事でテレビ映画の地位は高まった。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけだが、当時1964年東京オリンピックを前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった。ただ、この大リストラで多くの才能も失われた。東映動画については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている。ギャンブル性の強い映画と違い、テレビは局から予算が予め出されるため計算が立つ。何よりテレビ製作に求められる「早く安く面白く」は東映京都の最も得意とするところであった。また東映京都テレビや東映京都製作所(のち太秦映像)だけでなく、京撮本体でもテレビ時代劇の受注を開始させたが製作した「お前ら、これからはテレビで食っていけ」という岡田の指示の下、東映京都は各局からテレビ時代劇の制作を請け負い、量産体制に入っていく。テレビ映画に本格的に参入を図った岡田は、特に関西のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した。当時、電通大阪支社企画室長だった入江雄三を介して関西テレビの芝田研三副社長と東映テレビ次長・渡邊亮徳を引き合わせた。「子供ものの時代劇で何かおもしろいものを作ってくれ」と岡田から出された要望により、東映で子供向けの時代劇として最初に企画されたのが『大忍術映画ワタリ』で、時代劇に特撮をプラスした『仮面の忍者 赤影』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの。ここからは栗塚旭の『新選組血風録』、近衛十四郎の『素浪人 月影兵庫』、『柳生武芸帳』、大川橋蔵の『銭形平次』、杉良太郎、高橋英樹の『遠山の金さん』、高橋英樹の『桃太郎侍』などを生み、映画スタッフのテレビ進出の先駆けとなった。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映がフジテレビに道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った。当時フジテレビは虫プロ作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『ゲゲゲの鬼太郎』以降に繋がる。1969年から始まった『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔から協力を依頼され製作を受注したもの。本作は岡田が1967年発足した東映京都製作所(のち太秦映像)が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した。その他、1968年のテレビドラマ『大奥』は、岡田が企画した映画『大奥物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と渡辺岳夫にテーマ曲を依頼した。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった。関西テレビからは、「このだけは困る。題名ははやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され、その後『長谷川伸シリーズ』、松平健の『暴れん坊将軍』、千葉真一の『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇の分野を開拓した。当時他の映画会社はテレビに消極的で、1980年代半ばには、東映京都製作のテレビ時代劇はテレビ各局に広がり、シェアの90%近くを占め、その後も高いシェアを占め大きな柱となった。東映はこの年、東急グループを離脱した。一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年、借金で松竹をクビになった藤山寛美を一時東映に籍を置かせる。1967年、松竹にいた菅原文太を東映に移籍させ、安藤昇を東映出演させた。1969年、渡瀬恒彦をスカウト。1966年常務。「近い将来、東映の映画部門を担って大川社長を支える両輪となる人物は、製作は岡田茂、営業は今田智憲を措いてほかにいない」とかねて呼び声が高かったが1968年5月、共に44歳の若さで岡田が製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、今田は営業の最高責任者・営業本部長兼興行部長に就任。次いで同年秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任した。岡田が音頭を取った所謂「東映ポルノ/エログロ路線、好色路線」が、この前後から本格化した。1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅がボウリング、タクシー、ホテルなどの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた。これに労組が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地をロックアウトを決行し何とか乗り切った。大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線で、今田智憲も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周囲から「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が死去。毅から「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また五島昇の推しもあって社長に就任する。東映動画(現・東映アニメーション)会長兼任。社長に就任するやいなや不良部門をスパッと切り素早く合理化を推進した。東京タワータクシーを営業停止に、不採算の東映フライヤーズを日拓ホームに譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営していた東映ボウリングセンター32か所の大半を売却した。1972年6月、東映動画に経営企画室長の登石雋一を社長に派遣、ほぼ半数に当たる150名の希望退職者を募集させ紛糾した。「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と話した。この時異動したスタッフの本社・本編憎しのルサンチマンがのちに東映のテレビ、アニメ躍進の原動力となった。同年7月、幸田清を東京撮影時所長に抜擢。その後も組織のスリム化を断行した。一方で、ボウリングに代わる新規事業として住宅産業に進出、建売住宅・不動産分譲、マンション、パチンコ店事業にも進出した他、劇場の建て替えを含む再開発プロジェクトを手掛けた。また、ホテルチェーンやゴルフ場建設を拡大させるなど事業の再構築を行った。一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜。菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「東映ポルノ」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した。「実録映画」という呼称は、1972年のイタリア映画『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの。『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など実録映画の爆発的ヒットがあった1973年は年間配收約80億円と創立2番目の記録を更新した。「実録路線」はスタンダード化し、その後のVシネマなどでも、実録でなければ売れないという公式が確立された。「東映ポルノ」では、抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉を移植、池玲子の売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった。1972年から始まる“日活ロマンポルノ”が“ポルノ”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子、谷ナオミ、賀川雪絵ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした。これを皮切りに日活の『野良猫ロック』シリーズに対抗して池玲子、杉本美樹、大信田礼子らの『女番長・ずべ公番長』シリーズ、梶芽衣子、多岐川裕美、夏樹陽子らの『女囚さそりシリーズ』などを編み出し エロ映画を量産した。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって劇画原作を実写化するきっかけとなった。タランティーノの影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。『女囚さそりシリーズ』の第4弾『女囚さそり 701号怨み節』(1974年正月映画)と併映だったのが高倉健の新企画『ゴルゴ13』である。 1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた。しかしこの後、千葉真一・志穂美悦子らの格闘映画が大ヒットし、千葉の作品は海外でも大ヒットすると、ポルノ映画の主流が日活・大蔵映画などに移ったこともあって東映ポルノをアッサリ切り捨てた。1972年6月、それまで各事業部門が社長指令の忠実な実施体であったワンマン経営から、全社上げて経営に当たるという"経営第一主義"を打ち出す。全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部(テレビランドの創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった。全事業部門に例外なく己の担当する分野で、新たな収益原を開拓せよと命じたのである。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部がレコードの原盤やPR映画の制作、演劇公演やアニメーションフェスティバル、催事ショー(キャラクターショー、子供ショー)。地方博のパビリオンの映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」(日商主催)など文化事業を手掛けた。1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村をオープンした。大川からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年5月、洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出。とくにブルース・リーとアラン・ドロンの買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす。この洋画部は香港製のカンフー映画だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった。1973年『テレビランド』を徳間書店に移す。東映本体の制作では『トラック野郎』シリーズや、フランスで大ヒットした『新幹線大爆破』、『青春の門』『河内のオッサンの唄』、横山やすし主演の『唐獅子株式会社』、田中美佐子の映画デビュー作『ダイアモンドは傷つかない』、シブがき隊主演『ヘッドフォン・ララバイ』や、『柳生一族の陰謀』『二百三高地』『動乱』『制覇』などの大作を生んだ。正面から日露戦争を描きたいと笠原和夫に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた。フジテレビを退社した五社英雄をカムバックさせ『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』シリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した。1975年香港のショウ・ブラザーズと提携。カンフーブームで買い付けた『ドランクモンキー 酔拳』などジャッキー・チェン映画で、ジャッキーフィーバーを起こした。また労組問題で混乱していた系列の東映動画に1974年、親友の今田智憲を社長に据えて建て直し『キャンディ・キャンディ』や『UFOロボ グレンダイザー』『銀河鉄道999』『ドラゴンボール』『キン肉マン』『北斗の拳』『聖闘士星矢』『美少女戦士セーラームーン』『スラムダンク』などの作品を生み、日本アニメ日本国外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を西崎義展から買い付けしたのを手始めに、続編の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』など、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ、『銀河鉄道999』などの松本零士作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。『宇宙戦艦ヤマト』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった。1970年代後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの。1983年に東陽一に撮らせた『セカンド・ラブ』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは0の映画であった。外部ノウハウを起用し角川春樹とタッグを組んで、『人間の証明』『野性の証明』『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『蘇える金狼』『野獣死すべし』『悪霊島』『スローなブギにしてくれ』『魔界転生』『セーラー服と機関銃』『時をかける少女』『探偵物語』『里見八犬伝』『麻雀放浪記』『天と地と』など、一連の角川映画を手掛け一時代を築く。その他、自主上映で人気を得ていた柳町光男監督の『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』(1976年)、松田聖子のデビュー映画でサンミュージックとの提携『野菊の墓』(1981年)、日本テレビと提携した『誘拐報道』(1982年)、今村昌平の今村プロダクションと共同製作してカンヌ国際映画祭でグランプリを獲った『楢山節考』(1983年)、寺山修司監督の『草迷宮』(1883年公開)、全真言宗青年連盟との提携『空海』(1984年)などを提携(買取りを含む)、配給した。テレビ映画に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』などの時代劇、『特別機動捜査隊』『鉄道公安36号』などの現代劇、『さすらい刑事旅情編』に始まる『刑事』シリーズ、初の2時間ドラマとして特筆される『土曜ワイド劇場』、一世を風靡した『ジャイアントロボ』『仮面ライダー』(仮面ライダーシリーズ)、『人造人間キカイダー』『超人バロム・1』などの特撮変身ヒーローもの、『秘密戦隊ゴレンジャー』などのスーパー戦隊シリーズ、『宇宙刑事ギャバン』から始まるメタルヒーローシリーズ、『柔道一直線』『スケバン刑事』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。1975年テレビ版権営業部を設立し、版権収入の拡大に力を入れる。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため1977年12月、ATGの商業映画版ともいうべき、東映セントラルフィルムを設立。日活から黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として引きぬき、東映セントラルフィルムと組ませて低予算で映画を制作するセクションが設立され、これが後にセントラルアーツとなる。家庭用ビデオデッキの普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ(アダルトビデオ)が爆発的に売れた。1980年、東急グループの興行会社・東急レクリエーション社長に就任、16年ぶりに東急グループに復縁し、五島慶太・五島昇に対する不義理を解いた。1984年日本衛星放送(WOWOW)設立で非常勤取締役(〜2001年)。1986年黒木瞳を『化身』で、映画主演デビューさせた。1989年3月期の決算で東映として初めて総売上げ1000億円の大台に乗せる。1990年夏から「東映まんがまつり」を鳥山明に絞った番組編成の「東映アニメフェア」に転換させた。1993年、東映会長。1996年、ルパート・マードックと孫正義によるテレビ朝日買収を阻止した。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。瀬川昌治は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている。日本経済新聞社は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、サンケイスポーツは「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、松岡功は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した。親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本の笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った。早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした。沢島忠は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」、北大路欣也は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」、里見浩太朗は「すばらしい指揮官だった。あんな人はもう出てこないんじゃないかな。背が高くて二枚目。ダンディーで俳優や女優のあこがれだった」と話した。1971年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した。1978年日本アカデミー賞の創設にも尽力、会長・名誉会長を歴任し、その功績を称えて第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する。1985年、瀬島龍三らと東京国際映画祭を創設。その他、1982年5月、地方自治体で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー(広島市立中央図書館併設)の開館にも尽力した。1990年、岡田を主人公にした『映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる大下英治作で徳間書店から出ている。これを原作として笠原和夫が脚本を担当し、岡田の母親にまで会うなど徹底取材した2時間ドラマが、普段は洋画を放送する日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」枠で同年6月1日放送され、中村雅俊が岡田を、妻の役は黒木瞳が演じた。2006年7月、三代目会長だった高岩淡が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった。2011年5月9日、肺炎の為に死去。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という。1984年藍綬褒章、1995年勲二等瑞宝章受賞。映画雑誌『プレミア』(アシェット婦人画報社)2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で、角川歴彦、徳間康快、宮崎駿、北野武、出井伸之らを抑えて第1位に選ばれた。映画産業団体連合会は、第56回「映画の日」に於いて、ジャンルの縛りを超えた数々の映画を製作し、又、幾多の映画人を育成し続け、生涯を通じて映画界の隆盛に多大な貢献を果たした岡田に1993年に続き、二度目の特別功労大章を贈った。1950年、岡田の初プロデュース作『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』は、日本初の「反戦映画」といわれる。中島貞夫の出世作『893愚連隊』(1966年)、オールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年)は、任侠映画全盛で、製作が難しい企画だったが『893愚連隊』は、岡田が企画を通したものである。1980年の『二百三高地』は、岡田が「そうだなあ。乃木大将を中心に創ってみたらひょっとしていけるかな。今まで、乃木将軍を描いた映画はないだろう」という何気ない岡田の一言が『二百三高地』を生む切っ掛けとなった。『二百三高地』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。太平洋戦争、大東亜戦争を」「あれ、負け戦ですよ、日露戦争と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、太平洋戦争の脚本執筆を指示。『大日本帝国』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は瀬島龍三から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。『二百三高地』に瀬島を監修で呼んだのは岡田である。脚本は書き上がったが宮内庁の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという。東映太秦映画村がオープンした時、岡田は瀬島を撮影所に案内したが、岡田が照明や小道具、衣装などのスタッフみんなに声を掛けて回り、それも名前を全て覚えているのに瀬島は感心し、「この職場は統制のない秩序がある。上から強制しなくても秩序がちゃんとできている。本当の理想的な社会だ」と褒めたという。瀬島は大川毅が退職した1987年に東映の相談役に就任している。1957年、47歳の若さで死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳の若さで予算主義を現場で取り仕切る。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜ける豪腕により<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000 - 5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中のNGも2カットに1回しか認めない。当時の東映は人件費が安く、フィルム代が高かった。厳格なスケジュール・予算管理が徹底により、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという。大きなタッパで押し出しのきく体型。大きな声に強烈な自己発現力。そこから発せられる広島なまり(時に関西弁・関東弁の場合も)の弁舌は相当な風圧。ひとしきり"吠える"と必ず「なあおい!」が口癖。気の弱い者にはかなりのストレスだったという。マキノ光雄とともに美空ひばりを引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった山口組の田岡一雄組長。田岡は「ひばりをタイトル・ロールの常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。中村錦之助や大川橋蔵は、なにしろ歌舞伎界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという。高岩淡の証言では、この時の料亭での話し合いには、ひばりとマキノはおらず、岡田と田岡、加藤喜美枝の三者による話し合いで、田岡、加藤が「ひばりの名前を出演者のトップに出せ」と言って聞かないので、「歌舞伎界の御曹司(中村錦之助)をトップにしないわけにはいかない。今回はひばりさんはトメ(出演者の最後)にしてください。ひばりさんをトップにするなら、相手役は里見浩太朗になりますよ」と、岡田がはっきり言い返したので、田岡が感心して「この人の言うとおりや」と逆に加藤を論したという。田岡は岡田の度胸に惚れ込んで、以来、京都に立ち寄る度にスタッフ全員分のきんつばを土産に撮影所の陣中見舞いに訪れ、その労をねぎらうようになったという。また後に東映がヤクザ映画に方向転換した際は、取材協力だけでなく、他の組とのトラブルに巻き込まれないように気を配ってくれたという。田岡は生前「岡ちゃん、あんたがヤクザなら、俺以上の親分になっとるわ」と感心していたという。ひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると『岡田さん、岡田さん』と岡田を呼び『岡田さん以外とは話さない』と言っていたという。岡田は神戸芸能社との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは小林旭と結婚した1962年あたりから映画や浅草国際劇場での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、『江利チエミで大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです』と、新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた。『お嬢の座長公演のスタートは、女の花道』との演題で川口松太郎に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一か月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が『東宝から淡島千景を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする』というバーター案で、これにより沢島の貸し出しが決まった。沢島はこの後1967年、岡田が『もう時代劇はやらない』というので東映を辞め、東宝系の東京映画に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した。当時22歳の萬屋錦之介と17歳の美空ひばりは、共演後にたちまち恋仲となったが、ふたり共に、これから上り詰めていこうという絶好調の大スター同士で周囲が猛反対した。それでも別れないふたりに田岡は困り果て、岡田に別れさせてくれと頼み、岡田がふたりを別々に呼んで諄々と諭して別れさせたという。1954年、岡田が製作課長時代に東映に移籍してきた萬屋錦之介を唯一説得できる存在であった。錦之助は『笛吹童子』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、片岡千恵蔵や市川右太衛門の作品には若いファンがいない。だから錦之助や東千代之介の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、『ダメだ』と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると内田吐夢や伊藤大輔、田坂具隆ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は“巨匠離れ”ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は『そんなこと言ってると人気が落ちるぞ』とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって『岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ』と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、有馬稲子からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には『年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年俸が多いんだよ』と言うと、有馬は『そうよねー』と頷いていて、錦之助に『お前はそんな柄じゃない』などと説得したが聞き入れず。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し『宮本武蔵』五部作の完結編『宮本武蔵 巌流島の決斗』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は『このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ』との条件を出し錦之助を説得、1966年錦之助は東映を円満退社し『中村プロダクション』を設立したが1982年に倒産、岡田らの口利きで『ビッグヒル新社』という再建会社を設立したがこれも倒産した。錦之介は再び岡田のところへやってきて『柳生一族の陰謀』へ出演することとなる。格闘をモチーフとしたアクション映画は1956年の『空手打ちシリーズ』(高倉健主演)からだが、1960年代に入ると柔道を正式競技とする東京オリンピックを先取りした『柔道一代シリーズ』(千葉真一主演)や、テレビドラマでも桜木健一を主役にすえた『柔道一直線』を制作していた( ⇒ #テレビドラマ)。1973年の空手をモチーフとした千葉真一主演『ボディガード牙シリーズ』は、週刊サンケイに連載していた梶原一騎の劇画を映画化したもので、『巨人の星』・『あしたのジョー』・『空手バカ一代』と梶原が次々ヒット漫画・劇画を発表していたので岡田は注目していた。4か国合作『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(千葉真一主演)のシナリオハンティングで、1973年の夏に香港を訪れた高田宏治が劇場で『燃えよドラゴン』を観て「香港にとんでもなく面白い映画がある」と、岡田へ日本で一般公開される前に試写で観せた。「オモロイやないか。カンフーをカラテに置き換えて、千葉で行け(千葉真一を主演に据える)」と岡田が号令を出して製作したのが1974年の『激突! 殺人拳』。東映にとって久々の大ヒットを飛ばした作品となり、当時の岡田は何をやってもうまくいかなかったが、よっぽど嬉しかったらしく祝電をいっぱい打っていた。フランシス・フォード・コッポラが千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を作りたいと岡田に打診してきたことがある。アメリカ州・欧州・東南アジアで千葉の主演作品『殺人拳シリーズ』・『地獄拳シリーズ』が大ヒットしていた頃、岡田に「海外で勝負させてください」と千葉は頼んだが、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対された。ジャパンアクションクラブ (JAC) のことも悩み、他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた。鈴木則文が提出した三作品の企画を自らで潰しておきながら、京都へ帰ろうと挨拶に来た失意の鈴木に「京都時代に俺とお前で作った『緋牡丹博徒』のカラテ版をつくる。主演は香港から呼ぶ。『燃えよドラゴン』でブルース・リーの妹役を演ったアンジェラ・マオと交渉した香港支社から、今OKの知らせが入った。すぐ脚本の準備に入れ」と電光石火で企画を成立させる。「日本語なんか喋れなくてもあの子は売れるぞ。緋牡丹のお竜のカンフー版だ。お前のシリーズになるぞ。題名はこれだ」と岡田が付けた題名が『女必殺拳』(1974年)であった。しかしアンジェラ・マオが諸事情で不出演となり、千葉が推薦してきた愛弟子・志穂美悦子の抜擢となった。志穂美は「現代版お竜」を謳い文句に、「日本初のスタントウーマン」と銘打って『女必殺拳』で主演デビュー、『女必殺拳』はシリーズ化され、志穂美の出世作となった。志穂美は『華麗なる追跡』などにも主演していく。志穂美に続き、千葉の秘蔵っ子・真田広之が『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)、『吼えろ鉄拳』(1981年)、『燃える勇者』(1981年)と主演し、アクションスターとして売り出された。初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、ジャッキー・チェンの香港カラテ映画を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという。2002年、日刊スポーツ映画大賞の表彰式で『たそがれ清兵衛』で主演男優賞を獲得した真田広之について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した。1961年、東映東京撮影所の所長に着任し、ニュー東映の量産体制を担うべく、深作欣二ら助監督を監督へ昇格。千葉真一が初主演で深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』は、日活の『渡り鳥シリーズ』をマネしろと製作されたものだが、それでも物語はスピーディーかつドライな独自なものに仕上げられた。同年に千葉・深作コンビの『ファンキーハットの快男児シリーズ』は『風来坊探偵シリーズ』より現代的な作品になっており、高倉健・鶴田浩二らもニュー東映の“現代アクション路線”に出演していた。岡田は器械体操で使用される器具を次々東京撮影所に設置し、千葉へ撮影の合間にトレーニングするよう指示していた。千葉と深作は東映の外に出て、1966年の日本台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』でもコンビを組んでいるが、これらはテレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年、TBS)の先駆けともいえる作品となっている。深作の1962年作品『誇り高き挑戦』は各方面から賞賛されたが、お客が入らず、岡田が深作に「駄目や、全然違うじゃないか。お前、ジャーナリズムとか批評家なんかに褒められて、いい気になったらあかんぞ」「お前、もっとドンパチやれ。ドンパチやらないからいけないんだ。『ギャング対Gメン』、これをやれ」と同作を撮らせた。岡田は当時テレビで日本でも人気があった「アンタッチャブル」でいけ、と指示を出し、これを脚本の村尾昭が馬鹿丁寧にパクり、岡田は「これは面白い」と褒めたが、なんぼなんでもそっくり過ぎな映画になっている。しかし三島由紀夫は何故かこの作品を褒めたという。『網走番外地』(1965年)は、元々三國連太郎が、岡田が手がけた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”として、岡田に企画を提出したのが始まり。大映のアクション時代劇を観た岡田は 吹き替え・スタントマンの重要性に気づくが、当時の東映の大量生産体制でスタントマンを養成する余裕がないため、手っ取り早く、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。明るく楽しい時代劇では、いつか観客離れがくると、将来の時代劇アクションという方向性を模索していた。ところが当時は 吹き替え・スタントマンという専門職がまだ確立されていない時代、また宍戸も大映に所属し五社協定で移籍は不可能であるが、岡田は何のトラブルもなく宍戸を破格の待遇で東映に移籍させた。また100万円をポンと出して諸道具を購入させた。この諸道具は1962年、大映で市川雷蔵主演で『忍びの者』がシリーズ化されると、諸道具一式と宍戸を込みで大映に貸し出し、一作品当たり50万円(計8本)を請求して充分元を取った。宍戸を引き抜いたものの、間もなく時代劇を終了させ、着流しヤクザ路線へ舵を切るため、宍戸をあまり活かせず、宍戸は1967年フリーとなる。岡田プロデュースによる1963年『人生劇場 飛車角』は、東映任侠路線の幕開けとなった作品で、過去何度も映画化された青成瓢吉を主人公とする青春映画では当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据えヤクザ映画に変えたものである。『飛車角』路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた。この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』『御金蔵破り』『集団奉行所破り』『大喧嘩』『忍者狩り』『間謀』『くの一忍法』『十兵衛暗殺剣』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『徳川家康』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した。岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた。1972年、岡田が総指揮を執った藤純子の『純子引退記念映画 関東緋桜一家』が大ヒットした後、任侠映画の当たりがもうひとつの状況を迎えた。同年秋に安藤昇の『やくざと抗争』が予期せぬヒットを放ったため、即座に続編の製作を命じ、この続編のタイトルに『やくざと抗争 実録安藤組』というタイトルを付けた。暗中模索の中で岡田の頭にひらめいたのが"実録路線"である。これが『仁義なき戦い』の誕生になり、『山口組三代目』に繋がる。『仁義なき戦い』シリーズは、東映実録路線といわれ、その後、多くの実録ヤクザ映画が製作された(#実録)。1964年、所長として京都撮影所に帰還。「日本で最低の撮影所」ともいわれた東映東京撮影所を『人生劇場 飛車角』の大ヒットなどで甦らせたばかりであったため、鶴田浩二などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという。大川からの最大のミッションが京撮の合理化で、時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた矢先だった。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断。2100人いた人員を一気に900人に減らした。それだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないとかなり手荒い事をした。岡田が最初に手をつけたのは切りやすい現場スタッフではなく、草創期の東横映画時代から撮影所を支えてきた歴戦の勇士たちであった。片岡千恵蔵や市川右太衛門、月形龍之介以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた。まずは片岡千恵蔵と市川右太衛門の両〈御大〉。いずれも専属契約解除を通告、千恵蔵は重役待遇で東映に残り、任侠映画やテレビ時代劇の脇役として活躍した。右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、取締役としてしばらく在籍した後、相談役に退き東映を退社した。続いて〈天皇〉松田定次はテレビ映画に移管させた。〈法皇〉比佐芳武には引退を勧告した。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、平山亨らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託

出典:wikipedia

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