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ジャパンプロレス

ジャパンプロレスは、日本のプロレス団体。1983年、新日本プロレスはアントニオ猪木を筆頭にタイガーマスク(初代)、藤波辰巳、長州力など多くの選手を揃えて「新日本ブーム」とも言える好調な観客動員を続けていた。その反面、新日本の経営状況は猪木が1980年にブラジルで起こした事業への資金流用などもあり非常に逼迫した状況にあった。その様な中、新日本の経営体制に不満を持った山本小鉄、藤波、当時の営業部長であった大塚直樹らは放漫経営の原因となっていた社長の猪木、営業本部長の新間寿らを排除した形での団体を目指しクーデターを画策。一時的に勢力を掌握したものの、それぞれの思惑の違いから最終的に失敗に終わり猪木が再び社長に復帰する形になった。その際、大塚は営業次長であった加藤一良ら営業部グループは猪木の慰留があったものの新日本を退社して興行会社を設立する意向を固めた。その際、猪木より興行会社「新日本プロレス興行(しんにほんプロレスこうぎょう)」の名称を譲渡されて1983年12月、法人登記。大塚らは興行会社として再出発を切る形となった。新日本興行は新日本からすれば事実上の兄弟会社として新日本プロレスの興行を行う形で猪木と取引契約を交わしていた。その一方で新日本興行とすれば「純粋な興行会社であり新日本と名称が入っていても他団体の興行でも請け負う」というスタンスを取っていた。この会社間の思惑の相違が後に両会社間の軋轢を招く形となっていった。1984年、全日本プロレス取締役会長であったジャイアント馬場が新日本興行へ接触して興行の請負を打診。これを受けて8月26日、田園コロシアム大会を皮切りに全日本と新日本興行間の業務提携へと話が発展する形となった。新日本は兄弟会社と考えていた新日本興行がライバル団体である全日本と業務提携する事態を受けて阻止を図ったが新日本興行は応ぜず結局、新日本興行との取引契約解除を通告する形になった。大塚は契約解除の報復という形で田園コロシアム大会後に「新日本との絶縁」と「新日本からの選手の引き抜き」を実行することを宣言して一触即発の形となった。大塚らは親交のあった長州らユニット「維新軍(いしんぐん)」のほか、藤波やザ・コブラらにも接触を図っていた。長州、アニマル浜口から始まった維新軍は、これに共鳴する小林邦昭、寺西勇、キラー・カーンが加わり、後には期待のホープであった谷津嘉章も引き入れて一大勢力となっていた。長州、浜口は、当時ロサンゼルスを中心にアメリカマットで活躍していたマサ斎藤を訪ね「好きなようにやれよ。骨は俺が拾ってやるから」というマサの言葉を胸に帰国して最終的に維新軍全体で行動を起こすことになった。新日本は引き抜きが噂される選手達への慰留を続けてきたが9月21日、新日本を退社した長州、浜口、小林、谷津、フリーの寺西が新日本興行へ移籍することが発表された。また3日後には栗栖正伸、永源遙、保永昇男、新倉史祐、仲野信市がさらに合流。最終的にはマサやカーンらを含め13人の選手が集結した。10月9日、長州の個人事務所「リキプロダクション」と合併する形でジャパンプロレスに改称。ジャパンは全日本と業務提携を結んで全日本を主戦場とすることになった。ジャパン所属選手は、それぞれ全日本プロレスと専属選手契約を締結しており事実上全日本プロレス所属と言っても過言ではなかった。幾度か自主興行のシリーズ(巡業)も行ったが全日本所属選手とスタッフが全面協力して全日本プロレス中継で放送されるなど、全日本の通常興行と変わりはなく、当時の全日本は2チャンネル運営だったとも言える。主にジャパンのシリーズは全日本のシリーズが終了した直後に開幕しており全日本の大会数はこのジャパンのシリーズを含めると200以上であった。全日本に参戦した長州らジャパン勢はアメリカンスタイルと言われた「受けて勝つ」全日本のプロレススタイルに大きな影響を与えたと言われる。どちらかと言うとさっさと蹴散らしてしまう、いわゆる「ハイスパートレスリング」を身につけていた長州らのプロレスは、その後、天龍源一郎ら全日本の主力、中堅選手にも影響を与えている。また代表である大塚の尽力によりジャイアント馬場、梶原一騎、竹内宏介、大塚の四者会談が実現して、これが縁で三沢光晴扮するタイガーマスク(2代目)が全日本に登場。1985年6月に長州が大塚に代わりジャパンプロレス社長に就任(ただし会長の竹田勝司と副会長の大塚が代表権を掌握しており長州自身に代表権はなく「現場監督」の立場に近いものであったとされる)して東京都世田谷区池尻に事務所、道場、合宿所を備えた本社ビルを竣工。長州の社長就任以降、ジャパンプロレスは上昇ムードになりつつあった。長州は全日本では未だにファンから「伝説」と言われるジャンボ鶴田との一騎討ちやパワーリフティング世界王者だったトム・マギーとの異種格闘技戦など様々な名勝負や挑戦を繰り広げた。その一方では新日本からスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二を引き抜いてユニット「カルガリー・ハリケーンズ」として参戦させたり1984年ロサンゼルスオリンピックグレコローマン90kg級代表の馳浩を獲得した。TBSとのレギュラー放送開始計画も水面下で進めており将来、全日本からの独立へ向けての布石も築きつつあった。ジャパンは1985年9月、芸能事務所であるソーマオフィスとレギュラー放送における企画制作に関する契約を締結。計画では、1985年12月15日、19時30分から90分枠で特番を放送して(実際には翌週の12月22日にザ・スペシャルでジャパンの特番を放送)12月31日、第36回NHK紅白歌合戦の裏番組に格闘技大戦争という特番をぶつけ1986年3月に19時30分から90分枠で特番を放送した後に同年4月からレギュラー放送開始という計画であった。TBSにおけるレギュラー放送計画はTBS上層部の中に国際プロレス中継番組であったTWWAプロレス中継の打ち切りの際トラブルとなりプロレスに対する嫌悪感を持った人物がいたことがあり1か月で頓挫して同時にソーマオフィスとの契約も打ち切られた。その後、全日本はジャパンに支払う放映権料をそれまでの10%から15%に引き上げたほかに都内の大会場における開催の内6回を全日本、ジャパンとの合同主催にする、後楽園ホールにおける興行の約半数並びに札幌中島体育センター大会の内年1回、愛知県体育館大会と大阪城ホール大会の内年2回を、それぞれジャパンプロレス主催にするなどの契約を締結。これによりジャパン所属選手は事実上全日本所属になり独立への道は絶たれた。ジャパンプロレスの上昇ムードに水を差す形となったのがジャパンの経営を巡る内部対立であった。ジャパン内部は運営部門、興行部門、芸能、グッズ販売部門と分割されていたが、このうちの興行部門が赤字続きで日本テレビからの放映権料などにより補填されている状況で、また会社ビル自体も竹田会長の所有物であったことから賃料が発生していたことなど選手側の経営陣に対する不満が噴出。選手側と経営陣側に亀裂が生じつつあった。長州は1987年2月シリーズである「'87エキサイト・シリーズ」を開幕戦から欠場。同年3月23日、長州はジャパンプロレス本社で会見を開き全日本との契約を解除して独立する方針を表明。この会見は所属選手や社員の総意ではなく長州の一方的な会見であったため全日本の馬場は激怒。契約解除に関しては長州は「3月一杯で切れる全日本との契約を更新しなかった」と語っているが馬場は「まだ契約は残っていた」と語っており双方に認識の相違があった。ジャパン勢については全日本との契約のみならともかくテレビ中継していた日本テレビとの肖像権などの権利問題の契約が残っていた。全日本の大株主でもあった日本テレビと全日本は一番関係の強かった時期であり、全日本の重役も日本テレビから役員が出向、あるいは転籍の形で就任していたほか社員にも日本テレビ出身者が多く在籍していた。裏切りや契約には厳しかったと言われる馬場にしてみれば、日本テレビに大きな迷惑がかかるとして長州の勝手な行動に激怒したとされる。加えて長州はPWFヘビー級王者だったが手首のガングリオン(仮病との説もあり)を理由にシリーズ全戦の欠場を明言しており、この件についてもデビュー以来3000試合無欠場の記録を持ち「ポスターに出ている以上は試合に出るのがトップ選手の務め」との信念を持つ馬場からすれば許し難い行動であった。また内部でも完全独立に反対する竹田会長や谷津、永源らとも対立してジャパンプロ内部の混乱を露呈。この混乱の最中である同月25日、新日本の大阪大会で猪木と対戦するマサの代理人として長州が調印式に登場する事態となり、さらには同月28日には全日本の後楽園大会への出場を巡り、長州、小林らが出場を拒否し本社ビルへ籠城する事態が発生。最終的には同月30日、長州のジャパンプロレスからの追放を発表してジャパンプロレスは崩壊。追放された長州は新日本に出戻った。他の選手も全日本に残留する者、新日本に再び戻る者に分裂してマサ、小林、保永、マシーン、ヒロらは新日本に戻り、ユニット「ニュー維新軍(ニューいしんぐん)」を結成して参戦。その一方で谷津、寺西、永源、栗栖、仲野は全日本に残留。全日本に残った谷津は鶴田とタッグチーム「五輪コンビ」を組み、また永源はタニマチとの顔の広さを馬場から買われ、営業を任される重要なポストに就くことになる。また浜口、カーンらはいずれにも加わらず、これをきっかけに引退することになった。一説にはこの分裂劇は2枚看板のうちの1枚が離脱してUWFとの提携も円滑に行かず興行も苦しかった新日本の打開策としてアントニオ猪木が長州に「帰ってきてくれ」と頼み込んだとする説がある。しかし、当時の新日本役員で後に社長となる坂口征二は馬場との信頼関係を築いていたことを考えると真実は謎であると言わざるを得ない。裏切りで始まり裏切りで終わった形になってしまったジャパンはマスコミを中心に非難された。その十数年後、再び長州は新日本を離脱してWJプロレスを設立したもののジャパンでの教訓が生かされることはなく経営難に陥りマサや子飼いであった佐々木健介らの選手の離脱を招き短期間で崩壊する結果となった。

出典:wikipedia

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