笠谷 幸生(かさや ゆきお、1943年8月17日 - )は、北海道後志支庁余市郡大江村(現在の仁木町)出身のスキージャンプ選手。余市高校-明治大学を経てニッカウヰスキーに所属していた。2003年紫綬褒章。笠谷昌生は実兄。4歳の頃から遊びとしてジャンプを始める。仁木中学校3年生の頃には兄・昌生に連れられて羽幌炭鉱、明治大学合同の合宿に参加、ここで大人顔負けのジャンプを見せ、「仁木から(兄・昌生に続いて)再び神童が現れた」と言われた。1959年に北海道余市高等学校に入学するがスキー部の方針で高校選手権に出場できず、その怒りを闘争心に変えてこのシーズンのあらゆる大会の少年組を勝ち続けて翌1960年の新潟県高田市での全日本選手権に出場、この大会で3位に入ったほかこの年から海外遠征をこなすようになり、1963年2月22日の第2回STV杯ジャンプ大会では日本人2人目の100mジャンパーとなる(同大会で直前に菊地定夫が初の100mジャンパーとなっている)など一気に日本を代表するジャンパーへと成長を遂げた。1963年、明治大学経営学部に入学。1964年1月には全日本スキー選手権で初優勝し、インスブルックオリンピックに出場。70m級で23位、90m級で11位。1967年、明治大学を卒業、ニッカウヰスキーに入社。余市工場に配属。1968年、グルノーブルオリンピックに出場。70m級23位、90m級で20位。1970年にはチェコスロバキア・ビソケタトリでのノルディックスキー世界選手権70m級で銀メダル獲得、1971年の札幌でのプレ五輪大会では70m級で圧勝し、翌年に控えた札幌オリンピックへ向けて期待を集めた。1972年のシーズンは欧州ジャンプ週間で開幕から3連勝して史上初(当時)の4戦全勝優勝が期待された(3戦終了時点で2位に50.4ポイントの大差を付けていたため、出場さえすれば総合優勝は確実視されていた)ものの、オリンピックの国内選手選考試合との日程の兼ね合いでチーム全体での欠場が大会前から決まっていたため最終戦を欠場、ジャンプ週間総合優勝を逃した(この時笠谷は地元ファンの出場を求める声に困り果てた兄昌生から選考免除と最終戦出場を打診されたが拒否、正々堂々と選考試合を戦うことを選んだ)。札幌オリンピックでは2月6日の70m級(宮の森ジャンプ競技場)で1本目に84mの最長不倒で首位に立つと2本目はやや失敗気味ながら79mを飛んで金メダルを獲得、銀の金野昭次、銅の青地清二と共に表彰台を独占し、日の丸飛行隊と呼ばれた(この時実況を担当したNHKの北出清五郎アナウンサーは、「さぁ笠谷、金メダルへのジャンプ!……飛んだ決まった!!見事なジャンプ!!」という名ゼリフを残している)。また、90m級は1本目106mで2位につけるも2本目は91m飛べば逆転という場面ながら横からの突風に煽られて85mに終わり7位とメダルを逃している。1974年、ニッカウヰスキー札幌支店販売促進課へ異動。1976年のインスブルックオリンピック後も現役続行の意思を示していたが、1976年10月、シーズン開幕を前に当時兼任していたコーチ業に専念することとし、現役引退。1979年、日本体育協会の派遣コーチとしてオーストリアに2年間留学。コーチとしての知識を身につける。帰国後、社業の傍ら全日本スキー連盟の強化コーチとしてジャンプ選手の育成・強化に努め、1984年のサラエボオリンピック、1988年のカルガリーオリンピックの日本代表チームのコーチとして参加。しかし当時の日本チームは世界と互角に戦える選手層ではなかったこともあり、成績は振るわず、ニッカウヰスキー東京本社広報部副部長兼お客様相談室長への異動も機に、連盟の強化コーチを退任。連盟の飛型審判委員会委員となる。1992年、ニッカウヰスキー東京本社広報部部長に昇格。その後国際審判員の資格も取り、ワールドカップ、オリンピック、世界選手権などのジャンプ競技で審判を務めた。1998年、ニッカウヰスキー北海道支社副支社長就任を最後に、1999年退社。タクトスポーツプラザに入社。2001年全日本スキー連盟担当理事、ジャンプ部長兼ヘッドコーチに就任。サッポロノルディックスキークラブ所属。札幌スキー連盟副会長。2010年バンクーバーオリンピックでは、日本選手団副団長を務めた。※記録は「北海道新聞縮刷版」各年版に依る
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