『八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とする日本映画。橋本プロダクション・東宝映画・シナノ企画の製作で1977年に公開された。テレビドラマ版についても併せて記述する。1902年(明治35年)に青森の連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材に、一部創作を加え、極限状態での組織と人間のあり方を問いかけた作品である。配給収入は25億900万円で、1977年の日本映画第1位を記録した。高倉健、北大路欣也主演。北大路の台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になった。監督は森谷司郎、音楽は芥川也寸志で翌1978年3月の第1回日本アカデミー賞音楽賞を受賞している。1901年(明治34年)10月、弘前第八師団の第四旅団本部で、旅団長の友田少将と参謀長の中林大佐が青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊の連隊長以下を集めて会議を開いた。議題は八甲田の雪中行軍演習であった。日清戦争終了から6年を経て、ロシアの満州への進出で日露関係が緊迫して、もはや大陸での日露開戦は不可避と見られていた。第八師団では対露戦の準備に入っていた。そこで課題として参謀長が挙げたのは寒地装備と寒地訓練の不足であった。相手は零下40度の雪原でも闘えるロシア軍であり、日本軍にはそのような経験が無いので、極寒対策や雪中行軍の注意点及び装備品の研究を行うために厳冬期の八甲田山を行軍して調査を実施するものであった。弘前第八師団の友田少将/旅団長(島田正吾)は、雪中行軍の実績がある青森歩兵第五連隊神田大尉/中隊長(北大路欣也)と弘前歩兵第三十一連隊徳島大尉/中隊長(高倉健)に「二人とも雪の八甲田を歩いてみたいとは思わないか」と提案した。これは実質命令であると双方の連隊長は受け取っていた。会議のあとに弘前歩兵第三十一連隊長児島大佐(丹波哲郎)と青森歩兵第五連隊長津村中佐(小林桂樹)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと気軽に口約束する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。徳島大尉は第三十一連隊雪中行軍隊の行軍計画要項を連隊長に提出した。連隊長同士の約束を考慮し、10泊で総距離240kmの強行日程を組み、少数精鋭の27名の隊員(その中には兵卒よりも下士官を多くした)で雪中行軍する計画書であった。「このような計画になった責任は連隊長にあります」と説明して雪の八甲田で両隊が合流する約束をしたため、弘前からは南を迂回して十和田湖を東に進んで、東南の方向から八甲田山に入るコースしか選択肢はなかったのである。小隊規模にもならぬと連隊長から指摘されると、兵卒を少なく下士官を多く参加させて万が一の場合でも申し訳が立つと言い、「自分は安請け合いしたことを後悔しています。冬の八甲田は恐ろしい所です。」と連隊長に語るのであった。一方神田大尉の第五連隊雪中行軍計画は、弘前とは対照的に青森からいきなり八甲田をめざす3日間の短期日程で、当初は小隊規模を予定していた。ところが、弘前第三十一連隊の小隊にも満たない規模での長い行程を聞いて大隊長の山田少佐(三國連太郎)は、弘前第三十一連隊と比較して、青森第五連隊の内容が貧弱に思えて、規模も行程も特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることを唱え、実施することになった。1902年(明治35年)1月20日午前5時、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。青森第五連隊では雪中行軍計画要項が提出されて、連隊長が大隊本部の随行は雪中行軍とは別だなと念を押して決裁していた。連隊長は大隊長の同行に不安を感じていた。雪中行軍の本隊である中隊編成は196名、別途随行する大隊本部は14名、合計210名の規模となった。問題は物資を運ぶ輜重隊が遅れることが心配された。神田大尉は3日間の行程にはならず5〜6日かかることを覚悟していた。1月23日午前6時55分、青森第五連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。この日の行程は田茂木野 - 小峠 - 大峠 - 賽の河原 - 馬立場 - 鳴沢 - 田代(泊)で20kmを予定していた。しかし、行程半ばで天候が悪化、また雪山に慣れない人間の集団で行軍に影響が出始め、さらには単なる雪中行軍調査のための随行で指揮権の無いはずの大隊長の干渉によって指揮系統が混乱。神田大尉が想定していた田茂木野での案内人の雇用もなくなり、道案内がないまま行軍することになる。やがて吹雪が吹き荒れて、予断を許さない天候状況に行軍するかどうか判断することになった時、別の中隊長が大隊長に意見具申して大隊長が強行する判断を下した。この時点でもはや神田大尉の指揮権は無かった。輜重隊が遅れたためソリの放棄を大隊長に求めたが大隊長が反対して行軍隊の指揮は決定的に乱れてしまった。そして最初の宿営地である田代への道がどうしても発見できず、日が暮れて暗い雪原の中で寒さに震えながら立ち往生を余儀なくされた。田代までわずか2キロの距離であった。ここでまた混乱が起こる。突然大隊長が行軍を中止して帰営を決断する。そして帰営するため行軍を始めると進藤特務曹長が田代への道筋が分かったとして、方向転換して再び田代へ向かうが峡谷に迷い込んでしまった。特務曹長は錯乱して隊から離れていった。峡谷からは登って行かざるを得ず、氷に足を滑らして多数の犠牲者を出した。神田大尉は馬立場に戻ればと考えたが、もはや過酷な環境と疲労のために雪中行軍隊は四散し、バタバタと倒れていった。2日目の夜も野営を余儀なくされた。神田大尉は徳島大尉に思いを致していた。そして朝になって天候が回復さえすればと念じていた。しかし3日目の1月25日朝を迎えたが天候は回復しなかった。それを見て神田大尉は「天は我々を見放した」と叫んだ。村山伍長(緒形拳)はこの時に隊から離れて一人で行動を始めた。一方、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は一人負傷したが、案内人を雇い入れて計画通りに行軍を進めていた。1月25日に三本木に到着したが、この日に第五連隊雪中行軍隊も三本木に到着の予定であったことを知って、徳島大尉は不安を覚えるのであった。その三本木に電話を入れて来たのは青森第五連隊本部であった。雪中行軍隊の到着の報に一瞬安堵したが、それが弘前第三十一連隊だったと知って、第五連隊長は全連隊に集合をかけた。第五連隊から行方不明になったとの報を受けた弘前第三十一連隊本部は雪中行軍の中止を決断したが徳島大尉に連絡する術がなかった。1月27日、賽の河原で神田大尉から先に田茂木野に向かい救援を依頼するように命じられていた江藤伍長を、第五連隊本部から来た遭難救助隊が大峠付近で発見し、第五連隊本部並びに師団本部に第五連隊雪中行軍隊遭難の報が入る。しかし第三十一連隊雪中行軍隊はすでに八甲田山に突入していた。第三十一連隊行軍隊は過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部一等卒(神田大尉の従卒)の遺体を発見する。これで第五連隊行軍隊の遭難を知るが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続け一気に八甲田の踏破を目指した。猛烈な風雪にたじろぐが前進して行った。困難な行軍の途中、賽の河原にて徳島大尉は、多数の第五連隊行軍隊員の死体を発見する。その中に神田大尉を発見する。遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決していたのだった。冷たくなった神田大尉の顔に、生前の彼の笑顔が重なり、八甲田までの苦労をねぎらう言葉を徳島にかけてくるように見えた。既に逝った男の前で、徳島は幻の再会を果たした。悲しみと衝撃を受ける徳島大尉だったが、無事に八甲田山を突破、雪中行軍を成功させる。1月29日午前2時に田茂木野に到着する直前、道案内人たちにその労をねぎらい、手当を渡してから「八甲田で見たことは今後一切喋ってはならない」と忠告するのであった。その後に青森第五連隊の遺体収容所に行き、徳島は、収容された神田の遺体と対面。だが第三十一連隊行軍隊が賽の河原に到達する以前、既に第五連隊本部が神田を含む第五連隊行軍隊員の遺体を収容していたことを知り愕然とする。神田の霊が雪中で徳島を待っていたのか、それともあの再会は過酷な寒さによる徳島の幻想であったのか。徳島は神田の妻はつ子(栗原小巻)から、神田大尉が徳島との再会を楽しみにしていたと聞かされ、「会いました。間違いなく自分は賽の河原で会いました」と言って泣き崩れるのであった。弘前第三十一連隊雪中行軍隊は負傷者1名を三本木から汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方青森第五連隊雪中行軍隊は大隊本部の倉田大尉(加山雄三)の引率の下、12名しか生還(内1名は生還後に死去)することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田大隊長もいたが、彼は遭難の責任をとり、病室で拳銃で心臓を撃ち抜き自決する。徳島大尉以下の面々と第五連隊で生還した倉田大尉は、2年後の日露戦争の黒溝台会戦において全員戦死を遂げた。やがて時が流れて平和な時代が訪れた。青森ねぶた祭の歓声に沸く頃、ロープウェーに乗って、八甲田の自然を窓から静かに眺める一人の老人がいた。足が不自由で杖をついて歩くこの老人は草木に覆われた穏やかな景色の中、八甲田山系の山々をただ見つめていた。青森歩兵第五連隊雪中行軍隊で生き抜いた村山伍長であった。LPではA面に「第一部 白い地獄」、B面に「第二部 大いなる旅」がそれぞれ収録されていた。2009年にディスクユニオンのレーベル富士キネマよりCDで再発された(規格品番FJCM-006)。両曲共にサウンドトラックのテーマ曲に歌詞をつけたものである。上述のCDにボーナス・トラックとして収録された。1978年4月4日から5月9日まで毎週火曜日21:00 - 21:54 (JST) にTBS系列の火曜21時枠で放送された。全6回。映画の大ヒットを受けてテレビドラマ化したもので、大竹まことなど映画版に出演した俳優が数人出演している。その他、加々美よう子、西川洋子、矢吹寿子、谷中洋子、川島栄吉、飯田和平、菅原司、白取雲道、臼井裕二、長谷川明男※は映画版にも出演。
出典:wikipedia
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