タイキブリザードとは、アメリカ産まれの日本の競走馬である。大樹レーシングクラブの出資馬であり、募集価格は8000万円(100口)。1994年から1997年まで競走馬として23戦し、このうち1997年にはGI・安田記念を制した。また1996年と1997年にはアメリカのブリーダーズカップにも挑戦した。主戦騎手は岡部幸雄と坂本勝美。半兄にはアメリカでGI6勝を挙げたシアトリカルがいる。※馬齢は旧表記に統一する。1994年2月、東京でデビュー、血統背景や馬体から大物外国産馬との評価を受けていた。新馬戦、500万下条件戦を連勝すると、毎日杯、ラジオたんぱ賞、函館記念で2着になり、重賞こそ勝てなかったが、大物の片鱗を見せていた。翌1995年4月、福島で行われたオープン特別・谷川岳ステークスで遅まきながら初のオープン勝ちを挙げると、安田記念に出走した。GI初挑戦だったが、ハートレイクの3着に入った。続く宝塚記念もダンツシアトルの2着になり、重賞未勝利ながらGIでも上位に入線した。だが、秋は富士ステークス(当時はオープン特別)2着を経て出走したジャパンカップではランドの4着、有馬記念はマヤノトップガンの2着と善戦するものの勝ち切れないレースが続いた。タイキブリザードが重賞を初制覇したのは、1996年3月末の産経大阪杯でのことだった。追い込んできた2着のインターユニークにクビ差だけ凌ぎ切るという苦しみながらの勝利だった。その後、タイキブリザードは京王杯スプリングカップ2着を経て安田記念に出走、しかしトロットサンダーにハナ差の2着と惜敗し、GI制覇はまたもお預けとなった。休養後、タイキブリザードはブリーダーズカップ・クラシック出走のためカナダに遠征した。しかし、当地のダートが合わなかったのか13着と殿負けを喫した。なお、同日の東京競馬場で行われた天皇賞(秋)では、2歳下の僚馬バブルガムフェローが4歳(現3歳)での天皇賞制覇を果たしていた。タイキブリザードを管理していた藤沢和雄調教師は電話を通して、この時の実況を聞いていたという。タイキブリザードが復帰したのは1997年5月の京王杯スプリングカップのことだった。このレースをレコードで勝利し2度目の重賞制覇を遂げたタイキブリザードは3年連続で安田記念に出走した。単勝1番人気に支持されたこのレースで、皐月賞馬ジェニュインとの叩き合いになったが、クビ差で制し優勝。遂にGIを制覇した。GI馬になり、マイルに活路を見出したタイキブリザードは宝塚記念4着後、前年に引き続き米国へ遠征することになった。ブリーダーズカップ・マイルを目指し、前哨戦のオークツリーBCマイルハンデキャップでは3着と好走した。しかし、本番直前になって陣営はなぜか前年最下位に敗れたブリーダーズカップ・クラシックに目標を変更した。その結果、優勝したスキップアウェイから20馬身以上離された9頭立ての6着に敗れた。ちなみにこの時の陣営の判断は、現地メディアに「史上もっとも不可解な決断」と伝えられた。また、藤沢はこの時の出走変更について「(マイルでも)1分33秒台(の決着)では(出走していたとしても優勝は)無理だった」と後日、雑誌のインタビューで語っている。 なお、この件に関しては、レーティングの関係で主催者からBCマイルでは除外される可能性を指摘されたという説もある。米国遠征後、タイキブリザードはマイケル・ロバーツとのコンビで有馬記念に出走したが9着に終わり、このレースを最後に引退した。引退後、タイキブリザードはブリーダーズ・スタリオン・ステーションやレックススタッドなどで種牡馬として繋養された。2001年にヤマノブリザードが中央競馬の重賞勝ちを記録したが、同馬以外に中央での活躍馬は現れず、2005年に種牡馬を引退した。種牡馬引退後、タイキブリザードは去勢されて日高ケンタッキーファームへ移り、2009年1月には引退馬専門の繋養施設である鹿児島県湧水町のホーストラストへ移って余生を送っていた。しかし、2014年8月18日午後3時頃に疝痛を起こし、その1時間後の午後4時10分に死亡した。死後、宮崎大学で解剖した結果、死因は胃の破裂によるものだった。
出典:wikipedia
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