九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。なお、9か国条約と表記することもある。中国の関税自主権を拡大した。この条約は、中国に関する条約であり、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。これ以後、国際社会はワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。九カ国条約の根本的誤謬は、中華民国の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢民族の共和国に譲渡したものと推定したことである。また、九カ国には中国に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得た。その結果、同条約は日本に非常に不利となった。ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制のことを言う。日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を協調外交("幣原外交"参照)と呼び、代々立憲民政党内閣の外相幣原喜重郎らによって遵守されてきた。しかし、1926年(大正15年・昭和元年)に蒋介石の北伐が開始され、同年に万県事件、1927年(昭和2年)に南京事件や漢口事件が発生すると、日本国内では協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判した。そして、1931年(昭和6年)の満州事変は九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた(しかし1860年の北京条約ではウスリー川以西が清国の領土と規定されたが、中華民国はこの条約を無効と主張していた)。1932年に成立した満州国は中華民国の義務を継承するとし、また満州国承認国に対しても門戸開放・機会均等政策を行っていた。しかし、1934年11月に満州国において石油専売法が公布されると、イギリス・アメリカ・オランダの三ヶ国は(未承認の満州国ではなく)日本に抗議した。それに対し日本は、日本にとって満州国は独立国であるため干渉することはできないこと、そもそも門戸開放・機会均等は特定の第三国に通商上の独占的排他的特権を与えないことに過ぎないことなどを伝えただろうとされている。しかし、1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件にはじまる日中戦争(支那事変)でも不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、日中和平を仲介すべく、1937年11月にブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。これを受けて、休戦を主張する石原莞爾らの協力もあり、第1次近衛内閣外務大臣の広田弘毅はトラウトマン工作を開始した。しかし、日本側はこの会議への出席を拒否。これにより本条約は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊した。その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、1938年(昭和13年)1月16日には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明が発表され、和平への道は閉ざされた。更に、近衛文麿内閣総理大臣は汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。こうして、日中戦争は泥沼化し、日本の国際的孤立が加速することとなる。
出典:wikipedia
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