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鶴竜力三郎

鶴竜 力三郎(かくりゅう りきさぶろう、1985年8月10日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で井筒部屋所属の現役大相撲力士。本名はマンガルジャラビーン・アナンド(モンゴル語キリル文字表記:、ラテン文字転写:"Mangaljalavyn Anand")、愛称はアナンダ。身長186cm、体重155kg、血液型はA型、趣味はスポーツ観戦。得意手は右四つ、寄り、下手投げ、もろ差し。第71代横綱。実際に生まれ育ったのはウランバートル市内だが、取組前の呼び出しでは父親の出身地であるスフバートルを自身の出身地としている。四股名の「鶴」は部屋ゆかりの四股名「鶴ヶ嶺」から、「力三郎」は尊敬する井筒部屋の大先輩・寺尾が新十両場所だけ名乗っていたゆかりの四股名「源氏山」の下の名前に由来する。締め込みの色は青。大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時にはテニス・バスケットボールなど、当時の庶民の子弟には高嶺の花と言えるスポーツに滋しむことができ、レスリングにも励んだ。親の影響で勉学にも励み、いわゆる優等生であったが、その裕福な家庭環境から、自宅でNHKの相撲中継も視聴することができたため、当時興っていたモンゴル国内における「相撲ブーム」に接して、同郷の旭鷲山などの活躍に憧れて力士を志し、花籠部屋の選考会に参加したが、一旦は不合格となった。しかし諦念しきれず、雑誌「グラフNHK」の広告で相撲愛好会(日本相撲振興会)の存在を知り、父が勤務する大学で日本語を教えていた同僚に頼んで自身の決意文を和訳してもらい、それを同振興会の時田一弘会長宛に入門希望の手紙として送った。これを受領した時田会長は、同志の鈴木賢一と相談の上、[[井筒]]親方([[関脇]]・[[逆鉾昭廣|逆鉾]])に諮って井筒部屋に入門させ、[[2001年]]5月に来日、同年11月場所に初土俵を踏むに至った。井筒部屋に入門した2001年9月の時点では65kgしかなく、井筒は最初「床山にでもするか」と思ったという。だが3ヶ月で82キロまで増やし、新弟子検査に合格した鶴竜の笑顔を見て井筒は「こいつを育てなきゃ可哀想だ」と感じた。入門当初から物覚えが良く、廻しの切り方は1度で覚え、日本語は来日1年で堪能になったという。また、納豆も平気で食べられるなど日本食にも初めから適応できていた。同期生によると、相撲教習所時代には準備体操のランニングでいつも先頭を走るなど当初より向上心の高さが垣間見られたといい、同期の元幕内・[[隆の山俊太郎|隆の山]]は引退会見で「毎朝2人で先頭を走り、『寒いから早く走って中で暖まろうぜ』と片言の日本語で話していました」と当時の様子を述懐していた。こうして着実に番付を上げて行ったが、魚が嫌いでなかなか体重が増えず、[[三段目]]の下位で苦労した時期もあった。しかし、魚嫌いを克服してから徐々に体重も増え、三段目の上位でも勝ち越せるようになり、7月場所に7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌9月場所は一気に[[幕下]]14枚目まで番付を上げた。この場所は1勝6敗と跳ね返されたものの、千秋楽の夜に涙を流していたところに部屋付き行司の[[木村庄之助 (36代)|9代式守與之吉]]から「明日も四股を踏むくらいだったら怒られないよ」と耳打ちされ、場所後1週間の稽古休みとなる中で翌日からの與之吉言葉通り稽古場で大汗をかくほど四股を踏んで精進を図った。そして同年11月場所から6場所連続勝ち越しを続け、9月場所では幕下東5枚目で5勝2敗という微妙な成績ながら11月場所には[[十両]]に昇進した。しかし十両では軽量が災いしたか成績が伸びず、1場所で幕下に陥落した。翌[[2006年]]1月場所に東幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越し、十両に戻った3月場所は3勝6敗から6連勝して9勝6敗と[[関取]]として初の勝ち越しを果たした。その後は勝ち越しを続け、2006年9月場所では西十両筆頭で9勝を挙げて、翌11月場所には新[[幕内|入幕]]を果たした。新入幕となった11月場所では異例とも言える[[前頭]]東8枚目に[[番付]]を上げ、その後も勝ち越して西前頭2枚目まで番付を上げた。新十両以来二桁勝利は長らく無かったが、1月場所では11勝4敗の好成績を挙げ、初の[[三賞#技能賞|技能賞]]を獲得した。2008年9月場所から出身地を父の出身地であるスフバートルに変更した。西前頭筆頭で迎えた3月場所は7日目まで2勝5敗だったが、中日から8連勝で10勝5敗と二桁勝利を挙げて、3[[大関]]を破るなど2度目の技能賞を受賞した。翌5月場所は新[[三役]]([[小結]])に昇進。この場所は、3月場所と同様に2勝5敗とかなり苦戦したが中日から7連勝して最終的に9勝6敗と勝ち越し、3月場所に引き続き2場所連続で3回目の技能賞を受賞した。翌7月場所は新関脇に昇進したものの5勝10敗と負け越して1場所で平幕へ陥落した。翌9月場所では11勝4敗と好成績を挙げて4度目の技能賞を受賞した。翌11月場所は西関脇に復帰したものの、7勝8敗と負け越した。平幕に陥落した後も2場所連続で負け越すなど調子を取り戻せないでいたが、7月場所では初日から8連勝し、中日には大関・[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]を破るなどの活躍を見せた。結果11勝4敗の好成績で3場所ぶりの勝ち越し、5場所ぶりの二桁勝利を記録し、5度目の技能賞を受賞した。5月技量審査場所では西小結の位置で、13勝2敗で優勝した[[白鵬翔|白鵬]](第69代[[横綱]])に次ぐ成績の12勝3敗という自身最高の成績を挙げて6度目の技能賞を受賞した。翌7月場所では3大関を破る活躍を見せて西関脇(2枚目)の位置で10勝5敗と、三役で2場所連続の二桁勝利を挙げた。次の9月場所は東関脇(2枚目)の地位で、東関脇の[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]と共に初の大関獲りを目指したが、不調で7日目で早くも4敗を喫してしまう 。終盤4連勝して勝ち越したが9勝6敗に終わった。1月場所10日目には、初顔合わせの2007年9月場所から20連敗を喫していた横綱白鵬に寄り切りでついに初勝利、同場所は10勝5敗で初の殊勲賞を獲得、三役で2場所連続で二桁勝利を挙げたことで2度目の大関獲りとなった。3月場所は、初日から7連勝し、[[中日]]で大関・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]に敗れ初黒星となったが、翌9日目で前場所に引き続き白鵬に快勝して勝ち越し。その後14日目まで鶴竜が13勝1敗で単独トップ、12勝2敗の白鵬と優勝を争っていた。千秋楽[[本割]]で勝てば鶴竜の幕内初優勝だったが、平幕(西前頭6枚目)の[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]に敗れ2敗に後退。さらに13勝2敗同士の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]では、本割で勝っていた横綱白鵬に[[上手投げ]]で敗れ惜しくも優勝を逃してしまったが、殊勲賞と技能賞をダブル受賞。また14日目、琴欧洲戦の白星で直前3場所の勝ち星が大関昇進の目安となる33勝(10勝-10勝-13勝)となったため、翌5月場所の新大関が確定的になった。なお「6大関」となるのは職業相撲が始まったとされる室町時代以降、大相撲界では史上初の出来事である。2012年[[3月28日]]、満場一致で鶴竜の大関昇進が決定。[[昇進伝達式]]での口上は「これからも稽古に精進し、お客さまに喜んでもらえるような相撲が取れるよう努力します」であった。なお、昇進を伝える使者として1月場所後の改選で新理事に昇進した雷親方(元前頭筆頭・春日富士)と一門の勝負審判として部屋の先輩にあたる錣山親方(元関脇・寺尾)が井筒部屋に派遣され昇進を伝えた。新大関となった5月場所は中日まで1敗であったが、8勝7敗に終わった。7月場所は4連敗を喫したものの、14日目に[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]の休場により不戦勝で勝ち越しを決め、千秋楽に琴奨菊を下手投げで下し9勝6敗で終えた。9月場所は12日目まで2敗を維持していたが、13日目に白鵬、14日目に[[日馬富士公平|日馬富士]](第70代横綱)に連敗して優勝争いから脱落。千秋楽は7連敗中だった稀勢の里に勝利して11勝4敗、大関昇進後初の二桁勝利を挙げた。1月場所は終盤に4連敗し8勝7敗に終わった。2月の[[日本大相撲トーナメント]]では決勝で[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]を破り、初優勝を果たした。3月場所は8勝7敗、3場所連続で一桁勝ち星に終わった。5月場所は初日から8連勝で大関昇進後で初の中日勝ち越しを決めたが、9日目に琴奨菊に敗れ初黒星。その後の横綱、大関戦に全敗で10勝5敗。7月場所は10勝5敗と大関昇進後で自身初の連続二桁勝利を挙げた。9月場所は7日目まで6勝1敗としたものの、中日以降は連敗が続き、9勝6敗に終わった。11月場所は2日目から連敗し、その後は11日目まで2敗だったが、終盤4連敗で9勝6敗に終わった。1月場所は初日に同学年の[[隠岐の海歩|隠岐の海]]に敗れたが、2日目から白星を重ねて13勝1敗、千秋楽に14戦全勝の白鵬との直接対決に臨んだ。本割では白鵬を寄り倒しで破ったが、優勝決定戦では白鵬に敗れ初優勝はならなかった。それでも北の湖理事長は「決定戦までいったし、優勝に準じる」と、本割で白鵬を破って14勝1敗の優勝同点の成績を評価し、翌3月場所を綱取り場所とする見解を示唆。目安については「最低でも13勝。(最近は)2桁勝利に届いておらず、高いレベルでの優勝が必要」と話した。春場所では3日目にこれまで2連敗の[[隠岐の海歩|隠岐の海]]に押し出しで敗れ1敗となるが、その後は連勝を重ね12日目に横綱の日馬富士を送り出しで破り、14日目に1敗で並んでいた横綱の白鵬を破り単独トップに立つと、千秋楽で[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]を寄り切りで破り、14勝1敗で初優勝を決めた。また2014年春場所に於ける鶴竜の初優勝は大相撲個人優勝制度が[[1909年]](明治42年)に制定されてから通算100人目の幕内最高優勝力士となる記念の優勝でもあった。2014年春場所千秋楽の後、理事長の[[北の湖敏満|北の湖]]は鶴竜の横綱昇進を[[横綱審議委員会]]へ諮問することを決め、同月24日に開かれた同委員会で満場一致で推薦され、同月26日に開かれた夏場所番付編成会議と臨時理事会において正式に第71代横綱への昇進が決定した。外国人力士としては史上6人目、モンゴル人としては史上4人目の横綱となった。時津風一門からの横綱昇進者は実に52年6ヶ月ぶりである。また、2場所連続優勝せずに横綱に昇進したのは[[大乃国康|大乃国]]以来27年ぶり、平成に入ってからは初である。横綱伝達式では「謹んでお受けします。これから、より一層稽古に精進し、横綱の名を汚さぬよう、一生懸命努力します」と口上を述べている。なお[[横綱土俵入り]]は雲龍型を選択、指導は[[貴乃花光司|貴乃花]]親方(第65代横綱・[[一代年寄]])が行った。本来は同部屋もしくは同一門の師匠が指導するのが通例であるが、時津風一門の横綱は[[柏戸剛]]引退から鶴竜の昇進までの45年間に渡って不在で、その全員が物故者であるために貴乃花親方が代わりに指導役を務めている。なお、この土俵入りの指導者系譜をさかのぼって行くと、鶴竜 - 貴乃花 - [[若乃花幹士 (2代)|2代若乃花]] - [[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]] - [[木村庄之助 (21代)|12代立田川]]([[双葉山定次|時津風理事長]]の命による)となり、他の一門に伝えられていた土俵入りをルーツである時津風一門に戻すという、歴史的意義を生む伝承となった。5月場所初日、本場所で初めて雲龍型の横綱土俵入りを披露。なお本場所での雲龍型土俵入りは、2010年1月場所後に引退した[[朝青龍明徳]](第68代横綱)以来25場所ぶり。さらに「3横綱」は、2001年1月場所(曙・貴乃花・武蔵丸。同場所の千秋楽後曙が現役引退)以来80場所ぶりとなる。この場所は12日目の結びの一番で、行司軍配は豪栄道に上がっていたが、勝ち残りで東の土俵下に座っていた白鵬が、行司の判定に異議があるとして物言いをつけた。協議の結果、豪栄道がはたき込んだ際にまげをつかんだとして、鶴竜が反則勝ちを得た。横綱が反則で勝ったのは史上初で、幕内の取組で土俵下に控えていた力士が物言いをつけたのは18年ぶり。この場所は結局9勝6敗に終わり、鶴竜を好評(後述)する横審の内山斉委員長もこの結果には「横綱として初めての場所で緊張は分かるが、6敗は多すぎる。いただけない」と苦言を呈した。2012年11月場所、日馬富士が新横綱場所で出した9勝6敗に続いての1桁勝利だった。翌7月場所は11勝4敗とまずまずの成績を収めたが、5日目の大砂嵐戦では立合い変化による自滅を喫して初土俵からから15場所という小錦に次ぐ史上2位の初金星スピード記録(幕下付出を除く)を許してしまった。9月場所は、横綱昇進後初の中日勝ち越しとなり、場所を11勝4敗で終えたが、13日目には新入幕であり初土俵から5場所目の[[逸ノ城駿|逸ノ城]]に黒星を喫し、金星を配給した。11月場所は12勝3敗という好成績を残したが、白鵬に32回目の幕内優勝を許したことから場所後には自身を「これで横綱と言えるのかな」と嘆いていた。2014年12月31日、23歳のモンゴル人女性と結婚することが関係者の話で判明した。翌2015年5月には第1子が誕生予定と明かしている。体調を崩し、稽古が万全にできないまま迎えた1月場所は初日の高安戦には勝利したものの、2日目の[[宝富士大輔|宝富士]]戦には上手投げで敗れ、宝富士にとっては初となる金星を配給してしまう。6日目には栃煌山に敗れ、序盤に2敗したものの、10日目までは2敗を保ち優勝争いに加わっていた。しかし、終盤は負けが込んでしまい10勝5敗で場所を終えた。翌3月場所は以前から痛めた左肩の怪我が悪化、全治1か月の診断により、3月場所初日の当日朝に突如逸ノ城との[[取組]]を[[不戦勝 (相撲)|不戦敗]]・休場する事になった。尚横綱が初日不戦敗となるのは1954年5月場所の[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]以来61年振り。尚2日目には鶴竜-[[妙義龍泰成|妙義龍]]の取組予定だったが、急遽[[割 (相撲)|割り返し]]が行われる。又2011年1月場所から2015年1月場所まで続いた(但し本場所開催中止の2011年3月場所は除く)通算(幕内)連続[[勝ち越し]]記録も、24場所(歴代12位タイ)でストップとなった。翌5月場所も左肩痛が回復せず、2場所連続休場となった(横綱の2場所連続休場は、[[朝青龍明徳|朝青龍]](第68代横綱)が3場所連続休場した2008年7・9・11月場所以来7年ぶり)。場所後の[[5月29日]]に第1子となる4480グラムの女児が誕生し、"父親"となった鶴竜は「大きくて、とてもかわいい。生まれてきた子のためにも、これからまだまだ頑張らなければいけない。まずは下半身から鍛えていく」と、父親・力士としての抱負を述べた。休場明けの7月場所は、8日目迄白鵬らと共に8連勝で給金を直したが、後半戦の9日目・栃煌山戦で初黒星。その後13日目に稀勢の里にも敗れ、千秋楽結びの一番で白鵬戦に勝てば優勝決定戦に進出出来たが敗北、12勝3敗だった。9月場所は2日目から日馬富士、3日目から白鵬が相次いで休場し、事実上の[[横綱#一人横綱|一人横綱]]となった。3日目に嘉風戦、10日目に妙義龍に敗れたものの、終盤戦2敗で照ノ富士らと優勝戦線に加わった。14日目の稀勢の里戦で、立ち合いいきなり変化したが行司待ったで不成立。2度目の立合いで又しても変化し寄り倒して勝利、単独トップに。千秋楽結びの一番、本割りで照ノ富士に敗れ12勝3敗同士の優勝決定戦に進出、決定戦では照ノ富士に勝利し9場所ぶり2回目、横綱としては初めての幕内優勝を果たした。次の11月場所で2連覇を狙うも、序盤で2敗を喫する。千秋楽では横綱昇進してからは初めて白鵬を寄り切って勝利したが、新横綱場所だった2014年5月場所以来、9場所振り日馬富士と並ぶ横綱昇進後2回目の9勝6敗に終わった。1月場所は序盤戦で安美錦戦・勢戦に取りこぼして早くも2敗。10日目、日本出身力士として10年ぶりの幕内優勝を達成した大関・琴奨菊に寄り切られ、3敗と優勝争いから脱落。その後も白鵬戦・稀勢の里戦でそれぞれ敗れて10勝5敗に留まった。3月場所は初日に関脇の豊ノ島に敗れ黒星スタート。その後は8日目まで白星を重ねるも9日目に豪栄道に敗れてから失速。終わってみれば10勝5敗の成績だった。5月場所は12日目に琴奨菊に敗れ3敗として優勝の可能性が消滅。それでもそこから優勝の可能性を残していた日馬富士、稀勢の里を破り、千秋楽も白鵬と激戦を繰り広げるなど横綱の意地を見せた。最終的には11勝4敗だった。7月場所は3日目から平幕相手に連敗。その後に場所前の稽古で腰を痛めていたことを明かし、腰椎椎間板症により2週間の加療が必要との診断が下され、更に4日目の高安戦で左足首を痛めていたことも明かし、5日目から休場となった。(以下、引退力士)2016年7月場所終了現在       2016年7月場所終了現在(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2016年7月場所終了現在、現役[[力士]])[[Category:モンゴル出身の大相撲力士]][[Category:井筒部屋]][[Category:横綱]][[Category:ウランバートル出身の人物]][[Category:1985年生]][[Category:存命人物]]

出典:wikipedia

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