2005年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第56回大会である。2005年3月6日にオーストラリアで開幕し、10月16日に中国で開催された最終戦まで、全19戦で争われた。F1史上最多となる19戦で争われるシーズンとなった。2004年まで6年連続コンストラクターズタイトルを獲得してきたフェラーリと5年連続チャンピオンだったミハエル・シューマッハの黄金時代はついに終焉を迎えた。大幅なレギュレーションの変更を受けたこの年は、フェルナンド・アロンソとキミ・ライコネンの激しいタイトル争いが起こった。最終的には史上最年少でアロンソがチャンピオンを勝ち取った。第4戦サンマリノGPでB・A・Rのジェンソン・バトンの燃料タンクの構造が問題視され、最終的に僚友の佐藤琢磨も2戦欠場の裁定を受けた。また、第9戦アメリカGPではミシュランタイヤの不良で10チームのうち7チームがフォーメーションラップだけを走ってその後リタイヤするという大事件が起こる。このことが遠因となってミシュランは翌年いっぱいでF1から撤退した。2005年限りで有名なプライベートチームがF1から去っていった。ザウバーはBMWに、ジョーダンはミッドランドに、ミナルディはレッドブル(スクーデリア・トロ・ロッソ)にそれぞれ買収されて翌年から再スタートを切った。また、8月1日よりレギュレーションには直接の関係はないが、欧州連合域内でのタバコ広告が全面的に禁止されたことに伴い、一部のチームにおいてはタイトル・スポンサーの変更などが行われた。前年ランキング5位以下のチームは金曜日フリー走行(モナコは木曜日フリー走行) サードドライバーを走らせる権利を有するが、シーズン途中でレギュレーションの改訂が行われ、出走回数に関する規制が撤廃された。1GP1エンジンから、2GP1エンジンに変更された。エンジンのさらなる長寿命化で、コスト削減を狙う。フェラーリはシーズン初戦から旧車「F2004」の改良版でシーズンを戦うが、ルノーとの差は明らかだった。開幕戦はジャンカルロ・フィジケラが予選PPからスタートし、優勝した。アロンソも第2戦マレーシアと第3戦バーレーンで優勝する。一方フェラーリは鈍いシーズンのスタートであった。マクラーレンも速さを見せるがなかなか結果に結び付かない。バーレーンでは負傷欠場のファン・パブロ・モントーヤの代役としてペドロ・デ・ラ・ロサが久しぶりに参戦。ライコネンが3位で初表彰台、デ・ラ・ロサは5位と自身唯一のファステストラップをマークした。開幕3戦の話題をさらったのが、ジャガーを買収したレッドブルであった。開幕戦ではクルサードが表彰台圏内を走り、結局4位で終わったものの、クリエンとダブル入賞をはたし、第2戦マレーシアでもダブル入賞を果たした。一方B・A・Rは全く波に乗れない。開幕戦は低迷し、第2戦マレーシアグランプリではレース開始してまだ早い段階からジェンソン・バトンとアンソニー・デビッドソンのエンジンが壊れた。バーレーンでも佐藤琢磨とバトンはマシントラブルでリタイヤしてしまう。フィジケラは開幕戦は優勝したがそれ以降は完走できていない。トヨタはマレーシアとバーレーンで連続表彰台を獲得した。フェラーリの新車、「F2005」は前倒しでバーレーンで投入されシューマッハが予選2位を獲得。決勝でもアロンソを追いかけまわし復活が期待されたがトラブルで早々に姿を消しバリチェロも9位と入賞はならず。ミシュラン・ユーザーが入賞を独占した。ヨーロッパラウンドに入ると、ミナルディが新車PS05を投入した。初戦はリタイヤに終わったが、従来までのマシンと比べて明らかに速くなっている。レース終盤、アロンソとミハエル・シューマッハの一騎討ちになり、僅かな差でアロンソが逃げ切った。B・A・Rはバトンが3位、佐藤が5位でフィニッシュしたがマシンのレギュレーション違反によりサンマリノのレース結果は抹消され、2レース出場禁止のおまけまでついた。結局3位にモントーヤの代役、アレキサンダー・ブルツが入った。ビルヌーブは開幕戦後、ザウバーチームとの関係があったが、そんな中で4位に入り、関係が修復されたように見えた。スペイングランプリはアロンソのホームグランプリであったが、結局マクラーレンのキミ・ライコネンに敗れた。ミナルディの2台がトラブルで動けず、いきなりセーフティカーがでた。その後ミナルディは2台ともリタイヤした。フェラーリのミハエル・シューマッハもタイヤのトラブルでリタイヤした。なお、このレースではファン・パブロ・モントーヤが復帰し入賞した。モナコグランプリではライコネンが2戦連続でポールポジションを獲得し、レースでもずっと1位を走り続け優勝した。ルノーはタイヤが苦しく、トゥルーリは大胆なオーバーテイクでフィジケラをかわしていった。アロンソもウィリアムズ勢にオーバーテイクを許した。ウェバーはF1で初めて表彰台圏内でフィニッシュして表彰台にあがった。レースではミナルディのアルバースがスピン。ミハエル・シューマッハにクルサードが追突してリタイヤした。シューマッハはその後追い上げて7位でフィニッシュ。ファステストラップもマークした。ビルヌーブはこのレースでマッサと問題をおこし、またもペーター・ザウバーを憤慨させた。ヨーロッパグランプリは予選が土曜日のみに行われる方式に変更された。予選方式が変更された後の最初のポールシッターは、母国グランプリのニック・ハイドフェルドだった。レースではアロンソが優勝したが、ずっとトップを走っていたのはキミ・ライコネンであった。ライコネンはタイヤにフラットスポットをつくり後退、最後に大クラッシュしレースを終えた。ハイドフェルドは、結局2位でフィニッシュ。これがウィリアムズBMWとしては最後の表彰台であった。カナダも大波乱のレースとなった。レースはB・A・Rのバトンがポールシッターだったが、レース中にアクシデントでリタイヤした。リタイヤしたドライバーの中には、昨年もリタイヤした佐藤琢磨、前戦2位のハイドフェルド、そしてルノーの2台が含まれていた。マクラーレンのキミ・ライコネンが優勝。モントーヤも2位を走っていたが、セーフティカー導入中ピットインを行い赤信号を無視したため失格となった。フェラーリ勢が2位と3位に続いた。カナダ人ドライバーのビルヌーブは予選8位と健闘したが、レースでは接触しポイントは得られなかった。アメリカグランプリは、ミシュランタイヤを履いた14台が棄権した。金曜日のフリー走行でラルフ・シューマッハがクラッシュ。1年まえのレースで同じくタイヤのトラブルでリタイヤした場所であった。この点については、当該項目を参考されたい。このレースは結果的にシューマッハの今シーズン唯一の優勝となった。また今シーズン全チームで2回しかない1-2フィニッシュの1回目であった。ティアゴ・モンテイロはここまですべてのレースで完走し、初入賞と初表彰台を獲得。ポルトガル人の表彰台は初である。またジョーダン最後の表彰台、ミナルディも5-6位で完走し、2回しかないW入賞の1つ、そしてチームにとって最後の入賞であった。ラルフの代役のリカルド・ゾンタもこれが最後の出走であった。なおカナダとこのレースではレッドブルのサードドライバーに、アメリカ人スコット・スピードが起用され、金曜日のフリー走行を走った。なおこのレースの後、BMWが、ザウバー・チームを買収することを発表した。シーズン後半戦は、マクラーレンとルノーの一騎討ちになった。マクラーレンは特にライコネンがエンジンをこわしグリッド下位になるレースが多かった。シルバーストンはロンドン・テロの後の開催となりスタート前に黙祷が行われた。レース前に余興として「デイリーエクスプレス」のボブ・マッケンジー記者がほぼ全裸でシルバーストンサーキットを1周するデモランを行った。これは2004年に「もし今シーズンマクラーレンが優勝するようなことがあったら裸でサーキットを走る」と宣言してそれを実行したもの。レースではモントーヤが今シーズン初勝利。ライコネンは3位で、その間にアロンソという順位であった。ドイツグランプリはアロンソが優勝した。レースはライコネンが独走したが、中盤にトラブルが発生。2位はモントーヤ、3位はバトンが今シーズン初の表彰台を獲得した。このレースからミナルディはパトリック・フリーザッハをおろしてロベルト・ドーンボスを起用しクリスチャン・アルバースがチームメイトで「オランダ人コンビ」となった。ドーンボスはジョーダンのサードドライバーで、ジョーダンは彼の代わりに2003年にミナルディで走っていたニコラス・キエーサを起用した。ハンガリーグランプリではミハエル・シューマッハのフェラーリが今シーズン初、そして唯一のポールポジションを獲得した。しかしレースではマクラーレンのキミ・ライコネンが優勝した。ラルフ・シューマッハがトヨタ移籍後初の表彰台を獲得。さらに佐藤琢磨が入賞するが、佐藤の入賞はシーズン最初で最後である。なおレースではルノーがポイントを稼ぐことができずにライコネンとのポイント差が縮まった。アロンソは2年連続チャンピオンになるが、その2年ともにハンガリーではポイントを獲得していない。レッドブルはクルサードとクリエンがオープニングラップでリタイヤしてしまう。ミナルディは金曜日シャノッチ・ニッサニーを起用したが、これはイスラエル人として初のF1公式セッション参加となった。サマーブレイク明けのトルコグランプリ。イスタンブールパークではマクラーレンが圧倒的な強さを見せた。ライコネン-モントーヤの1-2フィニッシュになるかと思われたがモントーヤはモンテイロに追突されてアロンソに2位を明け渡した。レースではウィリアムズの2台がリタイヤしたが、これは右リヤタイヤがホイールからはがれてしまうというトラブルであった。ミナルディはフリー走行でイタリア人のエンリコ・トカチェロを走らせた。イタリアグランプリはまたしてもマクラーレンのマシンが中華鍋となり、エンジン交換ペナルティを受けた。レースはモントーヤが優勝した。優勝者の平均速度372.6 km/hはF1最速の記録である。なおこのレースは出走した全車が完走した2回目のレースとなった(1961年オランダグランプリ以来)。なお、このレースの結果でミハエル・シューマッハの6年連続チャンピオンの夢は潰えた。ティフォシがたくさん駆けつけるモンツァであったが、結局フェラーリはミハエル・シューマッハの10位が最高位と、入賞さえかなわなかった。ベルギーグランプリはウェットレースとなった。ミハエル・シューマッハは佐藤琢磨とラ・ソースで接触し両者リタイヤ、シューマッハが佐藤の頭を叩く、というシーンが国際映像でながれ批判された。レースはライコネンとモントーヤが1-2フィニッシュとなるかと思われたが終盤でアントニオ・ピッツォニアにぶつけられてリタイヤ。佐藤とピッツォニアにはそれぞれ次戦グリッドペナルティと罰金刑となった。アロンソが2位でフィニッシュし、チャンピオンがさらに近づいた。ティアゴ・モンテイロが開幕からここまで連続完走。アメリカグランプリ以来となるポイントを獲得した。ジョーダンという名前でのポイント圏内フィニッシュは、これが最後である。なお、レッドブルはミナルディチームを買収することを正式発表。チームは2006年から「スクアドラ・トロ・ロッソ」と改名されることがのちに発表された。さらにその後「スクーデリア・トロ・ロッソ」と改名される。ブラジルグランプリではBARの来シーズンドライバーラインナップが確定。バリチェロのチームメイトにはジェンソン・バトンの残留が発表された。レースはいきなり多重事故。ウェバーとピッツォニアのウィリアムズ勢がレースを失った。ウェバーは翌年もチームメイトと接触しリタイヤする。マクラーレンは今シーズン初の1-2フィニッシュを飾るがアロンソが3位に入り、チャンピオンが決定。アロンソの後ろでは、これまで2001年から今シーズンまでカーナンバー1を守ったミハエル・シューマッハが続いた。なおジョーダンのティアゴ・モンテイロの連続完走記録はこのレースで途切れてしまった。日本グランプリでは、B・A・Rチームの消滅が決まった。ホンダがチームを買収することになった。あと2戦で消滅するチームにバトンが予選1列目。PPはラルフで、日本メーカーのエンジンが1列目を独占した。しかし驚きはなんといってもクリスチャン・クリエンが予選で4位を得たことだった。レースでは予選の雨の影響でアロンソやライコネンが後方からスタートした。レースはモントーヤが早くもリタイヤ、佐藤琢磨もトゥルーリと接触しトゥルーリがリタイヤしてしまう。レースではシューマッハとアロンソ、ライコネンの激しいバトルが見どころであった。トップはフィジケラだがタイヤが苦しくなり、ファイナルラップでライコネンが首位にたって優勝した。佐藤琢磨はフィニッシュするがレース後失格となった。最終戦中国グランプリではアロンソが優勝し、コンストラクターズ・チャンピオンを獲得した。マクラーレンはライコネンが2位につけた。一方でモントーヤは、シューマッハがリタイヤしたためにドライバーズチャンピオンシップで3位になれる可能性があったが、結局モントーヤもリタイヤしてしまった。ジョーダンのナレイン・カーティケヤンは大事故でリタイヤしたがチームメイトのモンテイロは11位でチェッカーフラッグを受けた。これは同じブリヂストンタイヤを使用するフェラーリやミナルディよりも上位のフィニッシュ。さらに19戦中18戦で完走した。ザウバーのマッサはザウバー最後のポイントを獲得した。B・A・Rの佐藤琢磨は最終戦でもジャンプスタート、マシントラブルとちぐはぐなレースになった。ミナルディも惜しまれつつF1の世界を去って行った。19戦と長い2005年シーズンのタイヤ戦争は18-1でミシュランが大勝した。ミシュランはバーレーングランプリで入賞を独占すると、スペイン、トルコ、イタリア、そして中国のレースでも1位から8位を独占した。フェラーリF2005はヨーロッパラウンド序盤は好調だったが、終盤は失速し、入賞できるブリヂストン・ユーザーがいなくなった。しかしミシュランはこの勝利を喜ぶことはできなかった。インディアナポリスでのレースではミシュランタイヤの問題により、10チーム中7チームが0周リタイヤを選択した(不出走としている文献などもあるが、不出走であれば6台のみのレースで、チャンピオンシップレースと認められないという)。この問題のあと、FIAとの関係も悪化し対立が激しくなった。ついにシーズン終了後の12月、ミシュランは2006年シーズンをもってF1から撤退することを発表した。ミシュランがF1からの撤退を発表したが、2005年をミナルディとして戦ったSTRは、2006年シーズンにミシュラン製のタイヤを使用することが決まった。一方、ミシュランユーザーのチームのうち、ウィリアムズとトヨタは、2005年シーズンオフテストの後ブリヂストンタイヤを使用することが決まった。フェルナンド・アロンソは2007年にマクラーレンへ移籍することを発表した。※ 3rdドライバーの変更 リタイアしたがレース距離の90%以上を走行していたため完走扱い ミシュランタイヤユーザーは出走を取りやめた
出典:wikipedia
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