晋(しん、紀元前11世紀 - 紀元前376年)は、現在の中国山西省に西周代、春秋時代にわたって存在した国家である。始めはと呼ばれていたが、後に晋と改める。国姓は姫である。首府は翼、後に曲沃の分家が翼の宗家に取って代わった際に名を改め、絳と呼ばれるようになった。周の成王が弟のと庭の木の枝を使って「これを以てお前を封じよう」と封建の儀式の真似事をして遊んでいた。成王が宮殿に帰ると宰相のから「虞殿をどこへ封じましょうか?」と問われた。成王は驚いて、「私はあれと遊んでいただけだ」と答えるが宰相は「『天子に戯言無し』です。王の発した言葉は覆す事はできないのです」と答えた。ちょうどその頃周公旦がを征伐して帰ってきたので、虞を唐に封じ、とした。虞の子のときに汾水の支流である晋水にちなんで国名を晋とした。11代昭侯の時に、侯の叔父の成師が曲沃を与えられて分家し、死後桓叔と呼ばれた。桓叔は善政を行ったので曲沃は栄え、首都よりも大きくなった。その後、翼の本家と曲沃との間で争いが続き、武公の時代に翼の湣侯を滅ぼし、主家に取って代わった。武公の子の献公の時代に、献公の寵姫である驪姫が自らの息子を跡継ぎにしようと画策()したため、太子である(しんせい)は自殺を強いられ、公子の重耳と夷吾は国外に逃亡した。驪姫の息子以外の公子はほとんど殺され、また驪姫も息子と共に反対派に殺された。その後、諸国を放浪していた重耳が戻り晋公(文公)となると、周室の内乱を治めたり、城濮の戦い(紀元前632年)で楚を破るなど強大になって覇者となり、天下を経営した。景公の時代には邲の戦い(紀元前597年)で楚に大敗を喫し、天下の覇権が楚へと移った。敗戦の責任問題に端を発する内紛で公族の数が激減し、他国と比べて公族の力が弱体化していた中で側近政治が試みられ、狄を滅ぼすなど、徐々に大夫の影響力が増大した。厲公の時に鄢陵の戦い(紀元前575年)の勝利で楚から天下の覇権を取り戻したが、厲公の強引さが反発を生んで殺害され(紀元前573年)、悼公が周から迎えられた時には臣下に対して決定的な力を持たなくなった。悼公自身は名君だったので初めは目立たなかったが、晋の公室は、大夫たちの勢力の均衡に合わせて維持する存在になっていった。頃公の時に晋の公族から分かれた祁氏や羊舌氏を滅ぼすことによって、六卿(後述)が決定的な力を持つようになった。春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の5氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。また、韓氏のみ公族)の当主によって動かされるようになった。この6家系は他の有力大夫を排除して、六卿を世襲するようになっていた。さらに出公のときに范氏、中行氏の領地を智、趙、韓、魏氏が分割しようとしたため、出公は怒り、斉や魯と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなったために(紀元前457年)、晋室は全く力を失った。四氏のうち智氏が最も強大で、当主の智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを促し、これに成功する。紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、それぞれ独立した()。しかし晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土(魏に取り囲まれる形だった)を守りながら哀公以下5代に渡って存続した。紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の君臣関係ですらなくなった。紀元前376年、晋は韓魏の連合軍に攻められ陥落。この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったという。最後の君主・は城を出て庶民となり、晋は滅亡した。なお、趙、魏、韓の三国を三晋と呼ぶ。晋は三軍を持ち、それぞれの将軍・副将は卿が就任する。この6人の大臣を六卿と呼んだ。一軍の兵員数は12,500である。という序列となる。中上下をあわせて三軍といい、周の制度下において大国が持てる最大の軍であった。一時期、新たに三軍を作り六軍としたことがあったが、すぐに元に戻った。中軍の将に就くということは、卿の筆頭である正卿(宰相)になることと同義である(「正卿」と「中軍の将」が同義という訳ではない。)
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。