東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日) - 大正2年(1913年)12月16日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。陸軍大学校第一期生で、首席卒業の穎才として知られる。東條英機の実父である。日本体育会体操練習所(現日本体育大学)所長を務めた。1855年12月16日(安政2年11月8日)に陸奥の盛岡藩士 東條英俊の嫡男として誕生。その後、幕末、大政奉還、明治維新などを経験。陸軍教導団に兵卒として入隊。1877年、西南戦争に従軍、少尉試補に昇進。1885年度 陸軍大学校を首席で卒業(第一期生、卒業生は10人)。明治天皇から恩賜の望遠鏡を賜る(6期生までは恩賜の望遠鏡であった)。卒業後、陸軍大学校教官に任命され、メッケルに師事する。1888年から1891年まで井口省吾、山口圭蔵とともにドイツへ留学。1891年(明治24年)9月16日 任 陸軍少佐、ドイツ留学被免、補 陸軍大学校兵学教官。参謀本部第4部長(戦史編纂)などを経る。日露戦争では、歩兵第三旅団長として出征。しかし、抗命などを理由に解任、帰国させられる。1907年11月7日、中将に名誉進級後、予備役に編入。心臓病を患い、1911年11月より神奈川県小田原町の別荘で療養していたが、1913年12月に容体が急変し、同月16日に死去した。東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師を家業としており、南部氏に仕えた家系であった。英教の父の時に盛岡藩に士分に取り立てられた。陸軍大第一期生を首席卒業したが中将とまりであった。その理由として盛岡藩が戊辰戦争で明治政府と戦ったためや、当時は薩長派閥が幅を利かせていたためなどが言われている。また一説にはドイツ留学時に、来訪した山縣有朋に藩閥の弊害を抗議し、山縣の怒りを買った事が原因とされる。これは英教が参謀本部第四部長時代に書いた、大本営幕僚として日清戦争に参加した経験に基づいて作成した『隔壁聴談』が、後に山縣有朋らから睨まれる原因をなしたものであるという。この指摘によれば「英教が執筆せる日清戦史の忌憚なき記述は山県有朋の忌むところとなり、大才を伸ぶるを得ず。」や、「英教は日清戦史についても独自の論を展開したが、その大胆な筆致は薩長閥の総帥だった山県有朋を刺激した」という。なお中将で退官した直接の理由であるが、日露戦争の時に犯した作戦ミスが原因とされている。陸軍大第一期生の同期生で旅団長であったのは英教のほか、秋山好古と山口圭蔵がいたが、山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにも関わらず、師団長川村景明に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する事態となり川村の面子が潰されたからであるという。この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き「実兵指揮能力不足」という評価が下され旅団長を解任されで留守歩兵第2旅団に左遷された(名目上は病気)。そのため英教は陸軍でのキャリアが、「出世が遅れ」、「大将になれなかったのは長州閥に睨まれたことが原因」と恨んでいた。予備役による退職後は、専ら戦術の研究に打ちこみ著述業に従事した。英教は自身の挫折した夢を息子英機に託した。英機を一流の軍人として育て常日頃から軍人の心構えを説いて聞かせた。大正元年(1912年)12月、英機は見事父の期待に応え、3回目の挑戦で陸軍大学校に合格した。妻は東條千歳(福岡県北九州市小倉北区田町の万徳寺浄土真宗本願寺派住職・徳永某の娘)。息子として1880年に生まれた長男英夫、1882年に生まれた次男英実は夭折、実質的に三男の英機が長男として育てられる。他に3人の息子、娘がいたが、英機の弟のうち、寿は川崎航空機で航空技術者として活躍し、戦後英機から遺言書を渡されるなど交流があった。孫に東條英隆、東條輝雄、東條敏夫、東條光枝、東條満喜枝、東條幸枝、東條君枝、曾孫に東條由布子がいる。
出典:wikipedia
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