九条 教実(くじょう のりざね、承元5年1月5日(1211年1月21日) - 文暦2年3月28日(1235年4月23日))は、鎌倉時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・九条道家の長男。官位は従一位摂政関白左大臣。通称に洞院摂政(とういん せっしょう)、洞院殿など。承久元年(1219年)鎌倉で将軍源実朝が暗殺され源頼朝の血統が絶えると、父母が頼朝の縁戚にあたる九条家の子弟が摂家将軍として迎えられることになった。その際に教実もその候補に擬せられたが、結局次弟の頼経が将軍に迎えられることとなり、自身は九条家を相続することになった。九条家はこの教実の代に分裂し、三弟の良実が二条家の、と四弟の実経が一条家の祖となったため、以後の教実の系統を特に後九条家と呼ぶこともある。安貞元年(1227年)右大臣、寛喜3年(1231年)左大臣となり、同じ年、父から関白と藤氏長者を譲られるが、実権は父に握られていた。安貞2年(1232年)に後堀河天皇が譲位して四条天皇が践祚するとその摂政となった。天福元年(1233年)9月に藻璧門院が、翌年8月には後堀河院が相次いで崩御すると、これは承久の変で配流となり皇統から外れた隠岐院(後鳥羽上皇)の怨念の成せる業だと噂されるようになった。そこで教実は上皇の帰洛を幕府に諮ったが失敗に終わり、それから間もなくして薨去した。日付は旧暦による。
出典:wikipedia
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