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デヴィッド・ギルモア

デヴィッド・ジョン・ギルモア(David Jon Gilmour, CBE、1946年3月6日- )は、イングランドのミュージシャン、ギタリスト。デイヴ・ギルモアとも呼ばれる。1968年にピンク・フロイドに正式メンバーとして加入。バンドを支えるギタープレイやヴォーカルで活躍する。他メンバーより2歳年下であるが、元メンバーのシド・バレットとは同い年で、学生時代からの知り合いである。身長183cm。ストラトキャスターを主に使用するギタリストとして知られる。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第82位、2011年の改訂版では第14位。ケンブリッジ大学で動物学の講師をしていた父と教師の母のもとにイングランドのケンブリッジで生まれる。幼少の頃からギターを弾き始め、10代後半で様々なローカル・バンドで活躍するセッション・ミュージシャンとなる。その頃、既にプロデビューしていたピンク・フロイドのシド・バレットが、過剰なドラッグ(LSD)摂取により活動続行が困難な状況になっていた。そこで代わりのギタリストを捜さなければならなくなり、旧友のギルモアに白羽の矢が立てられることとなった。ギルモアは当時、ジョーカーズ・ワイルドというバンドで活動していたが、行き詰まりを見せていたため、既にプロデビューを済ませヒット曲も持っているピンク・フロイドへの加入を快諾し、1968年にその一員となった。当初の予定では、バレットは曲作りやレコーディングで活動してもらい、ギルモアはライブやメディア出演での活動を行うように考えていた(ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンとブルース・ジョンストンのような形にしようとしていた)。しかし、バレットの症状はあまりにも酷く、バンドからの脱退(実質は解雇)を余儀なくされる。バレット脱退後のバンドは、ロジャー・ウォーターズが作詞・作曲を手掛け、ギルモアはギタリスト兼ヴォーカリストとして活躍。最初にリード・ヴォーカルを担当したのがシングル曲「夢に消えるジュリア」だった。サウンド面では『神秘』や『原子心母』のアイデアを提供している。ギタリストとしては、派手なプレイは少ないものの、緻密な音作りによって叙情的で美しい独特のサウンドを生み出し、高い評価を得ている。ブルージーかつ浮遊感のあるギルモアのバッキングは、フロイド・サウンドの代名詞ともいえる存在である。また、「コンフォタブリー・ナム」「タイム」「マネー」などでのギターソロはロック史に残るプレイとして名高い。1969年の発表の『ウマグマ』で作詞に苦労し、ウォーターズにアドバイスを求めるも拒否されている。1972年発表の『雲の影』では「大人への躍動」を作詞作曲。それ以降、バンド内ではウォーターズが1986年に脱退するまですべての作詞を担当したため、ギルモアはまったく歌詞を書いていない。ウォーターズ脱退後はバンドのリーダーとなったが、作詞は外部からの協力を仰いでいる。ギルモアは、ピンク・フロイドのメンバーの中でも、最も外部ミュージシャンとの親交を多く持ち、グループ外での音楽活動も活発に行っている。ケイト・ブッシュの兄を介して無名時代のケイト・ブッシュを知り、デモテープ製作等を支援。その後の彼女のアルバムにも幾つか参加している。1978年、初のソロ・アルバム『デヴィッド・ギルモア』を発表。ピンク・フロイドの他のメンバーに先駆け、最初のソロ・アルバム発表となった。ピンク・フロイド加入前のバンド時代のメンバーと制作した。このソロ・プロジェクト時に思いつき、後にバンドで生かされたのが『ザ・ウォール』収録の「コンフォタブリー・ナム」である。1984年、アルバム『狂気のプロフィール』を発表。ディープ・パープルのジョン・ロード、ザ・フーのピート・タウンゼント、スティーヴ・ウィンウッドらが参加する。直後にソロ名義として初のツアーを行っている。ロンドン公演の模様はビデオ作品『David Gilmour』(※日本未発表)に収められている。1985年、ライヴ・エイドにブライアン・フェリーのバンド・メンバーとして出演する。ピンク・フロイドは活動停止中だったため、フロイドのメンバーでは唯一の出演となった。1987年、ウォーターズ脱退後初となるピンク・フロイドのアルバム『鬱』を発表し、世界的なヒットを記録する。以降は、再始動したピンク・フロイドのリーダーとしてバンドを率い、ベースやキーボードなども演奏している。また、いくつかの共作を除いては、ほとんどの楽曲制作を行っている。1989年、「ロック・エイド・アルメニア・チャリティー」でキース・エマーソン、ブライアン・メイ、トニー・アイオミ、リッチー・ブラックモア、ポール・ロジャースらとの競演を果たしている。1994年、7年振りとなるピンク・フロイドの新作『対』を発表、プロデュースも担当している。アルバム発売後には大規模なワールド・ツアーを開催する。また、本作で作詞を手掛けたポリー・サムスンと後に結婚(共に再婚)している。1996年、イギリスで行われた「プリンス・トラスト」にて、ザ・フーのステージにボーカルとギターで参加。1999年には、ポール・マッカートニーのバンド・メンバーとして、ミック・グリーン、デイヴ・マタックス、イアン・ペイス(ディープ・パープル)などと共にアルバム『ラン・デヴィル・ラン』のレコーディング及び同時期に行われたツアーに参加する。このアルバムへの参加をポールから依頼された時、「ポール・マッカートニーから、純粋なR&Rのアルバムを作りたい。参加してくれるかと聞かれて断るギタリストがいるか」と快諾。男気のあるところを見せるも、ポールから、「出来るだけシンプルな機材で頼む」と言われ、どの程度がシンプルな機材なのか分からず困惑する。1990年代はピンク・フロイドや自身のソロ活動よりも、他のアーティストのレコーディング参加やプロデュース業に多くの時間が割かれている。2001年6月にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールにてアコースティック中心のライヴを行う。この模様はDVD「デヴィッド・ギルモア/イン・コンサート」に収録されている。同じくアコースティック中心での内容で、翌2002年初頭にヨーロッパ・ツアーも行う。2002年のツアーにはピンク・フロイドのリチャード・ライトが参加している。公演によっては、ゲストとしてボブ・ゲルドフやケイト・ブッシュも参加した。2003年、これまでの音楽活動やチャリティー活動の功績が認められ、CBE(上級勲爵士)を授けられている。2005年7月2日、アフリカ貧困撲滅チャリティー・イベント「LIVE 8」で黄金期のメンバー4人が集まり、ピンク・フロイドとして一夜限りの再結成を果たす。2006年、22年振りとなる新作『オン・アン・アイランド』を発表し、ソロとしては初の全英1位を獲得した。アルバム発売後、ソロ名義でのヨーロッパ・アメリカツアーを行っている。このツアーにも2002年と同様リチャード・ライトが参加している他、2006年5月31日のロンドン公演ではニック・メイスンの飛び入りも実現している。しかし、依然としてピンク・フロイド再始動に関しては否定的である。このツアーの模様は、5月に行われたロイヤル・アルバート・ホールの公演を収めたDVD『覇響』(2007年)、8月に行われたポーランド公演を収めたCD『Live in Gdansk』(2008年)にて発表されている。2008年6月15日、「原子心母」のオーケストラ・アレンジを務めた前衛音楽家ロン・ギーシン主催の「Atom Heart Mother」と題されたロンドンでのコンサートにゲスト出演。このコンサートは6月14日から28日まで行われたチェルシー・フェスティバルの一環として開催され、「Atom Heart Mother」と題されたスペシャル・ライブは6月14日と15日の2日間行われた。ギルモアは2日目の15日のライヴのみに出演。ギルモアは10名のブラス奏者、地元合唱団、チェロ奏者のキャロライン・デイル、イタリアのフロイドのコピーバンドのマン・フロイド、そしてロン・ギーシンと共に「原子心母」を演奏した。2010年、イギリスでのチャリティ・ライヴでロジャー・ウォーターズと共演して4曲を演奏。また、2011年3月12日にもロジャーのソロ・ツアー「The Wall Live」のO2アリーナ公演にて競演を果たしている。2010年、ジ・オーブのアルバム『メタリック・スフィアーズ』の録音に、ギター/ボーカルとして参加。同アルバムは2010年10月に発表された。2010年12月、義理の息子のチャーリー・ギルモア(ポリー・サムスンの連れ子)が騒乱罪や公共物破損未遂などの容疑で逮捕された。政府の大学授業料値上げに反対するデモに参加した際、戦没者慰霊碑に掲げてあるイギリス国旗にぶら下がったり、チャールズ皇太子夫妻の車列にゴミ箱を投げつけるなど、破壊行為や窃盗行為で起訴された。翌年3月にはチャーリーに1年4ヶ月の禁固刑の実刑判決が下された。2015年、9年振りとなる新作『飛翔(原題:Rattle That Lock)』を発表。第一弾シングル「ラトル・ザット・ロック」には刑務所の現/元受刑者による合唱団ザ・リバティ・クワイアが参加している。息子が服役した際に刑務所制度を見直したことがきっかけで実現したという。ギルモアはザ・リバティ・クワイアの後援者にもなっている。ワールドツアーを開催し、1971年以来のイタリア・ポンペイでライブ公演が実現、同市から名誉市民を授与された。この他にもスタインバーガーのGM2T等様々なギターを使用している。特にピンク・フロイド活動停止中の1980年代からは、フロイド以外にもスタジオ・ミュージシャンとして多くのセッションに参加している。ポール・マッカートニーはレコーディングのみならずツアーにも帯同。ケイト・ブッシュはデビュー前からのバックアップを行っている。

出典:wikipedia

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