LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

棋士 (将棋)

棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」・「プロ棋士」ともいい、本将棋を職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟に所属し、棋戦に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「女流棋士」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は(狭義の)棋士ではない。また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。前近代の日本において、将棋を生業とする者は「将棋指し」と呼ばれる遊芸師(芸人)であった。江戸幕府の崩壊により家元制度が消滅した後は、安定収入のある専業の将棋指しはほとんどいなくなり、賭け将棋で生計を立てる真剣師や他に生業を持つ者などが多かった。彼らはいくつかの将棋団体や将棋専門紙をつくって将棋の復興を試みたがなかなかうまくいかなかった。1924年(大正13年)9月8日、ついに東京の将棋指し三団体が関根金次郎(十三世名人)の下で合併し、「東京将棋連盟」を結成した。1927年(昭和2年)には関西の将棋指しも合流して「日本将棋連盟」となり、1936年(昭和11年)に「将棋大成会」と改称、1947年(昭和22年)に現在の「日本将棋連盟」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになっていき、兼業だった将棋指したちがようやく将棋を専業とすることが可能になった。将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに、「将棋指し」に替わって「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴(十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の「棋士」がプロの正式名称である。日本将棋連盟では、棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している("将棋棋士一覧" を参照)。棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日が早い順番に、1番の金易二郎(名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。なお、棋士番号制度導入後に退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っているが、2015年4月1日現在欠番となっているのは、退会による139番のみ。棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、女流棋士と指導棋士もいる(ただし、日本将棋連盟を退会して現役を続けている女流棋士もいる)。女流棋士は棋士とは異なり女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため(狭義の)棋士ではない。棋士が全員、日本将棋連盟の正会員であるのに対し、従来、女流棋士は正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日の臨時総会で「女流四段以上またはタイトル経験者」という条件付きで女流棋士も正会員とすることが決議された。指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。かつては段位を「準棋士○段」としていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。棋士になるための現行の制度について解説する。新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、入会試験に合格しなければいけない。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、所定の成績を収めると、四段の棋士(プロ)となる。6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そのような少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、およそ入会者全体の15%ほどである。瀬川晶司のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる新たな道筋が模索された。2006年の棋士総会の決議により、アマチュアからプロへの編入について、以下のような「フリークラス編入試験」が制度化された。従来のように奨励会を経る事を必要とせず、プロ棋士となる事ができる。2014年9月、元奨励会三段の今泉健司が7月に竜王戦・朝日杯将棋オープン戦・銀河戦で良い所からみて10勝4敗の勝率7割1分4厘で条件を満たし、第一号として受験。12月8日に編入試験3勝を挙げ、通算3勝1敗で合格を果たした。翌2015年4月1日より、棋士となった。直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。棋士は自らの意思で引退や日本将棋連盟からの退会ができるが、引退後も退会しなければ、依然として正会員である(「引退棋士」と呼ばれる)。なお、1977年4月1日の棋士番号制度(上述)の制定以後、退会した例は永作芳也(1988年退会、当時32歳)1名のみである。自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。1. フリークラス編入者の場合2. フリークラス宣言者の場合3. フリークラスの定年以上の年齢でC級2組から陥落した場合上記1、2の引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日で、テレビ棋戦の場合は対局の放映日である(2010年2月24日改定)。下記を参照。中学生で棋士に昇格した者を、俗に「中学生棋士」と呼ぶ。第二次大戦後、次の5名が中学生棋士となっている。このうち谷川と藤井が中学2年(史上最少学年)にプロデビューしている。日本将棋連盟は、プロ養成棋士機関の新進棋士奨励会の最下位に属する6級が、アマチュアの全国大会に県代表として出場できるアマチュア三〜四段と同程度の実力という見解を示しており、これが伝統的なプロとアマの棋力差の指標となってきた。昭和には花村元司や小池重明など、奨励会を経ずにプロ入りが認められた、また検討されたレベルのアマチュアも稀に出現した。今日ではアマチュアの最強豪が公式棋戦で実力下位のプロに勝つことは珍しくない。奨励会で三段まで上ったもののプロ入りが果たせなかった瀬川晶司は、アマチュアとしての活躍によりプロ公式棋戦に参加して優秀な成績をあげ、プロ編入試験受験の資格を得てプロになった。2005年2月28日、アマチュア選手強豪の瀬川晶司が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に奨励会の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、銀河戦で当時A級八段の久保利明らを破るなど、対プロ戦で勝率7割を超える戦績をあげていた。この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。過去にアマチュアのプロ編入は、1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験しておらず、奨励会退会者のプロ編入は前例がない。2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川のフリークラス編入試験を実施することに決定した。6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった(瀬川晶司氏のプロ入りについて)。またその後、前述の通りプロ編入制度が制定された。2014年12月8日に、今泉健司が3勝(1敗)した事で、制度制定後初の合格者が誕生した。コンピュータ将棋は2013年以降プロ棋士相手に9割を超える勝率を誇っている。橋本崇載は飯田弘之らが開発したTACOSと2005年に、渡辺明(当時竜王)は保木邦仁が開発したBonanzaと2007年にそれぞれ対戦し、いずれも接戦ではあったがプロ棋士側が勝利した。そして2013年にはプロ棋士5人と第22回世界コンピュータ将棋選手権において優秀な成績を残した5つのソフトが団体戦を戦う第2回将棋電王戦が開催され、その第2局に登場した佐藤慎一四段がponanzaと対戦し、現役プロ棋士としては初の敗北を喫した。そして最終第5局ではA級棋士である三浦弘行八段が選手権1位であったGPS将棋に敗北し話題となった。この第2回将棋電王戦はプロ棋士側の1勝3敗1分であった。それ以前の対局では、厳密な意味でのプロ棋士ではないものの、広義の棋士が公式戦でコンピュータ相手に敗れた例は存在する。女流棋士の清水市代は2010年にあから2010(4つのソフトの多数決方式)に敗れている。また、プロ引退後の米長邦雄永世棋聖も2012年1月に(第1回)将棋電王戦としてボンクラーズと対戦、中盤のミスでコンピュータに敗れている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。