尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年(昭和3年)11月29日 - 1999年(平成11年)9月21日)は、日本の文芸評論家。ゾルゲ事件の研究や、大衆文学評論に尽くした。ゾルゲ事件の尾崎秀実は異母兄。台湾台北市に生まれる。父尾崎秀真(尾崎白水)は美濃出身で戦前の台湾で文士・新聞記者として活躍した。中学時代に兄秀実がゾルゲ事件で検挙され、家族は周囲から冷たい扱いを受けた。台北帝国大学附属医学専門部(中退)在学中に学徒動員により訓練や作業に就く。終戦の翌年に母の実家福岡に引き揚げ、その後岐阜に移り、ゾルゲ事件真相究明を志して上京。義姉を介して伊藤律の紹介で、中部民報東京支局に就職。日本共産党にも出入りし、1948年に入党、川合貞吉らとともに尾崎伝記編纂委員会、尾崎事件真相究明会などでゾルゲ事件の調査を行う。この時期、秀実の弟として党内やマスコミからも注目があった。1949年に中部民報社が経営悪化し、党につながりのある印刷会社文光堂に就職、しかしほどなく解雇される。次の就職先を見つけるが、急性肋膜炎で倒れ、その後肺浸潤に進行し、生活保護で暮らすようになりながらこれまでの手記を執筆し始める。手記は1955年に脱稿し、1959年にゾルゲ事件をテーマとしたノンフィクション『生きているユダ』として出版。その一方、ゾルゲ事件で刑を受けた川合貞吉に、事件を素材にした長篇小説「民族の哀愁」を『面白倶楽部』に連載していた牧野吉晴に引き合わされて文学の道を勧められ、牧野主催の第二次『文藝日本』に参加し、編集にも携わる。この頃魯迅に傾倒し、『文藝日本』で原稿に穴があいたときに、穴埋めに魯迅論を書いて掲載した。牧野の元で寺内大吉や伊藤桂一と知り合い、童門冬二、永井路子、平岩弓枝ら『小説会議』に1959年から参加し、大衆文学評論を始める。1960年からは『近代説話』の同人として活躍。1961年には竹内好らによる岩波書店『文学』誌での「戦争下の文学」共同研究に参加し、旧植民地文学や大東亜文学者大会の研究をもとにして、1963年『近代文学の傷痕』を出版。1961年には武蔵野次郎、南北社の大竹延と、大衆文学、大衆文化の研究を目的とした大衆文学研究会を設立し、雑誌『大衆文学研究』を発行、石川弘義、足立巻一、村松剛などがスタッフとして参加した。大衆文学評論を中心に、歴史評論、漫画論などでも活躍し、多数の著作を残している。1987年から「大衆文学研究賞」を創設し、尾崎の没後は「尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞」として継続されている。日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事も歴任した。など数多くの文学賞選考委員を尾崎の没する1999年まで務めた。1959年に『生きているユダ』を刊行して以来、尾崎は特別高等警察の資料やチャールズ・ウィロビーによる事件の報告書、川合貞吉の証言などをベースに、伊藤律が兄の尾崎秀実を裏切って警察の手先となり、事件の検挙を招いた「ユダ」であると非難する立場を取った。1980年に伊藤が中国から帰国してもそれは変わらず、その後に刊行した『ゾルゲ事件と現代』では、新聞などに載った伊藤の証言の信憑性を疑い、従来の説を繰り返した。1989年に伊藤が死去した後、遺稿の手記を読んだ渡部富哉が事実関係を調査し、それまで「伊藤が事件発覚の端緒である」ことの根拠とされてきた内容に矛盾があり、成り立たないことを発見した。渡部は1991年に尾崎に公開討論を申し入れ、翌年尾崎はこれに応じている。このとき、尾崎は従来の自説を繰り返したが「渡部氏の調査によってこれまで書かれていたことが部分的に修正、補足されるところはある。これはさらに解明されなければならないと思っている」と述べた。渡部は1993年、調査結果を『偽りの烙印 伊藤律スパイ説の崩壊』(五月書房)として刊行し、尾崎の著書では事実検証がずさんであることや、明確な根拠を示さずに伊藤を「スパイ」と決めつけている記述が散見されることを指摘して、「何の根拠も裏づけもない、妄想の所産といってもいいほどのもの」と強く非難した。討論会や渡部の著作に対して尾崎は、雑誌『情況』の1993年10月号に「ゾルゲ事件と伊藤律――『偽りの烙印』に答える」という文章を発表したが、その内容は大半が自らのゾルゲ事件や伊藤との関わりを述べたもので、伊藤の回想や渡部の著書についても触れたものの「(渡部らの)批判には私の調査の不十分を衝くものもあり、一つ一つに答えてゆかなくてはならない」と記すにとどまった。渡部は同誌12月号に「尾崎秀樹氏に問う――「ゾルゲ事件と伊藤律」について」という文章を寄稿し、尾崎の文章が討論会での発言を同義反復したに過ぎず、「伊藤スパイ説の明確な根拠がない」という自分の指摘に答えていないと述べた。その後尾崎はこの件に関して沈黙した。渡部ら有志が1994年に結成した「伊藤律の名誉回復を求める会」は、1997年12月に尾崎に直接「伊藤スパイ説」の撤回を申し入れたが、尾崎は「伊藤が北林トモの存在を特高に告げたこと」「戦後『ゾルゲ事件研究会』を解散させたこと」の2点をあげてこれを拒絶し、亡くなるまで自説を変えることはなかった。これについて渡部は、「前日本ペンクラブ会長」の面子へのこだわりと、渡部が発掘した事実に反論できないジレンマの中で訂正・謝罪を拒否したのだと述べている。その後、加藤哲郎が新たに公開されたアメリカ陸軍情報部(MIS)の日本関係文書を2007年に調査した結果、川合貞吉は戦後エージェントとしてウィロビーが率いるGHQ参謀第2部(G2)からゾルゲ事件の情報提供に対する報酬を受け取っていたことや、ゾルゲ事件を反共宣伝の材料とするウィロビーの意に沿って、共産党幹部だった伊藤を事件発覚の端緒」とする証言をおこなっていたことが明らかになり、川合の証言に対する信憑性は著しく低下した。伊藤律は生前の知人宛の書簡ですでに川合がウィロビーとつながりを持っていたことを記しており、それが裏付けられた形となった。のみならず、川合が個人的動機から伊藤を誣告する証言をおこなったことも公開文書から明らかになった。川合がG2からの報酬を受け取っていたころ、尾崎は川合から米軍の召還・保護を受けた話を聞かされ、身なりや生活が豪奢になったことに「不自然な疑惑」を抱いたというが、ゾルゲ事件に対する証言に信を置く姿勢は変わらなかった。加藤は、尾崎が川合の証言に基づく伊藤律黒幕説を「自己のレーゾン・デートル(存在根拠)として固守し続けた」と記している。現在では、「伊藤がゾルゲ事件発覚の端緒である」という説を支持する見解は事件の研究者にほぼ見られなくなっている。なお、同じ親族でも、尾崎秀実の妻は伊藤が「スパイ」として日本共産党を除名された後も伊藤端緒説やスパイ説に同意せず、尾崎とは対立した立場にいた。伊藤は生前の書簡で、尾崎秀真が尾崎秀実から絶縁されたのちに尾崎が生まれ、尾崎と秀実との間には文通すらなかったと記している。また、尾崎が「伊藤がゾルゲ事件研究会を解散させた」と主張している点については、この集まりに尾崎秀実の他の近親者や知人が「ハナをつまみ」寄りつかずに潰れたことをそう言っているのだと述べている。
出典:wikipedia
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