久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年(明治34年)2月2日 - 1959年(昭和34年)12月7日)は、日本の皇族、官位は海軍中将大勲位功三級。昭和天皇の義兄。元帥海軍大将伏見宮博恭王第3王女の知子女王を妃とする。1929年(昭和4年)1月27日の父王の薨去を受けて久邇宮家を継承する。1947年(昭和22年)10月14日に久邇の姓を賜り皇籍離脱し、久邇朝融と称す。戦後は『久邇香水』の製造販売を手掛ける等幾つかの事業を興すがいずれも失敗に終わり、赤字の穴埋めのために熱海と赤倉の別邸や麹町の本邸を次々と売りに出し、渋谷・常磐松の母俔子の隠居所に5人の子供と転がり込んだが、ここも飯野海運社長・俣野健輔の手に渡り、住まいをことごとく失う。生活に窮した朝融は、東本願寺に嫁いでいる妹の智子裏方に頼み、当時米国に留学中だった大谷光紹の住まいである成護院別邸に入り込むことも考えていたが、門徒代表の猛反対で失敗。門徒は、発展家として知られる朝融の派手な女性関係に反感を持っていたともいわれている。1959年(昭和34年)12月7日死去。王妃決定までには『婚約破棄事件』と称される混乱があった。1917年(大正6年)、久邇宮邦彦王の子朝融王と酒井忠興の娘酒井菊子は婚約する。しかし、久邇宮家側が一方的に婚約解消を望み、宮内省をまきこむ騒動となる。菊子との婚約は既に勅許を得たものであり、また久邇宮家と言えば先の裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王の婚約の際には婚約解消を断固拒否したばかりであった(これを宮中某重大事件という)。今次の婚約破棄は一方的で理由が不明瞭であり、天皇の裁可を覆すことは前例がない等、大きな問題となった。皇族の結婚は天皇の許可を得て行われることが通例で、たとえ皇族といえど覆すのは難しかった。正式な婚約ではなかったものの、勅許を得たものであり、そもそも先の宮中某重大事件とはこれがために無事婚約と至ったのである。宗秩寮総裁の徳川頼倫、宮内大臣の牧野伸顕らの説得にも関わらず、久邇宮邦彦王は婚約破棄の方針を貫く。結局、1924年11月、宮内省は酒井家側から婚約辞退の申し出をさせることで事態を収拾させた。当時摂政であった裕仁親王(昭和天皇)は、邦彦王に訓戒の言葉を伝えている。
出典:wikipedia
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