陸王(りくおう)とは、かつて日本で製造販売されていたオートバイのブランドである。生産された車両は主としてアメリカのハーレーダビッドソンを源流としていた。陸王の生産に携わった企業は、幾度の買収や倒産を経たため数社に跨っている。実用車としてのオートバイは大正時代から日本に輸入され、特に大型で強力なアメリカ製二輪車のハーレーダビッドソンやインディアンなどは、しばしば側車(サイドカー)付きで官公庁・民間に用いられるようになっていた。日本陸軍もこの例に漏れず、偵察・連絡などの用途で機動力のあるオートバイの活用に着目するようになった。昭和期に入ると、日本でのオートバイやオート三輪の国産化の動きが高まり、日本政府や軍も国産製品の導入を推進した。一方で国内産業保護政策として、輸入されるオートバイには多額の関税が掛けられるようになったため、輸入車の国内販売価格は高騰してしまった。1933年当時、ハーレーダビッドソンの輸入を行っていたのは、製薬会社の三共(現第一三共)の多角経営策で設立された傘下企業の「日本ハーレーダビッドソンモーターサイクル」だった。同社は関税対策と当時の国策への協調の見地から、ハーレーダビッドソンの日本での現地生産を、アメリカのハーレーダビッドソン本社へ申し出た。ハーレー本社にとってはこのオファーには旨味は少なかったが、当時のハーレー本社は世界大恐慌の煽りを受けて業績が悪化しており、新モデルへの設備更新時期でもあったことから日本法人の要請について了承することとなった。生産した車両を日本国外へ輸出しない事を条件に、サイドバルブエンジン車両の生産に関するライセンスやツール全てが日本側へ供与された。従って、この三共製ハーレーは、巷間言われるようなハーレーダビッドソンの模倣もしくは無許可コピーではなく、正式なライセンスを得て生産されたものである。こうして日本ハーレー社の手で国内生産が行なわれることになり、1934年(昭和9年)以降1934年型のハーレーダビッドソンモデルVL(1200cc)を本格生産開始、その後1935年型のモデルR(750cc)も国産化して以後の主要車種となった。日本ハーレーは1935年(昭和10年)には社名を「三共内燃機」に変更、日本製品としてのイメージを高める意図の公募により「陸王」という日本名が付けられた。この時に公募名を選ぶ立場にあった三共内燃機の経営者の中に慶應義塾大学出身の者がおり、慶應義塾大学の応援歌『若き血』の一節「陸の王者、慶應」の歌詞が気に入っていたので応募の中にあった陸王の名を選んだ、との説がある。社名は翌1936年(昭和11年)に三共内燃機からブランドに合わせた陸王内燃機に変更され、年間数千台のペースで生産を行なっていった。オートバイ・サイドカーのみならず、オート三輪も手がけている。技術的には旧型ハーレーの国産化モデルでありやや時流遅れだったが、アメリカ製大型二輪車の主流レイアウトであるV型2気筒・チェーン駆動を引き継いでいたため、アメリカ車慣れした日本の保守的ユーザーには好まれた。日本陸軍はその最たるもので、軍用に開発されたサイドカー付き二輪車「九七式側車付自動二輪車」も多くの面で陸王がベースとされた。しかし実際の陸王は、工作機械一切をアメリカ本国から導入していたにも関わらずアメリカ本国製のハーレーを凌駕するものではなく、品質面では若干劣った。これは1937年以降戦争(日中戦争)下にあり良好な資材の入手が困難になりつつあった日本での厳しい制約である。軍用生産された「九七式」も、陸王製のモデルよりオート三輪「くろがね」のメーカーの日本内燃機が生産した同型車の方が高品質だった。陸王内燃機は「くろがね」と違い、技術面で市場をリードするほどに卓越した企業ではなかった。1941年7月に仏印進駐を巡り日米間の関係が悪化し、同年12月に日米間で開戦したものの生産は継続された。1945年の終戦直前に生産が一旦停止されたものの、終戦直後から再び生産を復活させている。生産は継続されたものの、終戦後の混乱期にあった日本で大排気量の大型バイクを生産しても販路は薄かった。結局1949年(昭和24年)に陸王内燃機は倒産し、元航空機メーカー・昭和飛行機の資本傘下で別会社の陸王モーターサイクルが事業を継承した。さらに1950年代に入ってからの日本では、戦後型イギリス車やドイツ車の新たな技術トレンドを取り入れたより軽快な小型・中型オートバイが多数の老舗・新興メーカーで生産されるようになり、戦前型ハーレーからさしたる進歩の無かった陸王は市場の潮流から外れた鈍重な大型車としてますます販路を狭めていった。このため陸王も1952年(昭和27年)以降はハーレー系でない中型・小型車の生産をも開始、販路の拡大を目指したが、大小の有名無名メーカーがひしめき合う群雄割拠の戦国時代にあった1950年代の日本のモーターサイクル業界では、経営体質脆弱かつ開発力不十分な陸王の生き残りは困難だった。労使紛争などもあって経営は行き詰まり、1959年(昭和34年)を最後に陸王の生産は打ち切られた。陸王モーターサイクルも翌年倒産した。当初生産されたオートバイはサイドバルブV型2気筒1208ccのエンジンを搭載した車両であり、これは当時のハーレーダビッドソンモデルVLという車両を国内で生産したものである。戦前の陸王は軍需に依存していたため、生産の中心は軍用サイドカーだった。日本人の体格に合わせ陸王としては小型の750ccモデルも生産し、戦後一時期は白バイなどにも採用された。しかし、1200ccはフロントのガーターリンク式サスペンションや後輪固定式シャーシなどを遅くまで使用するなど、シャーシ設計の旧弊さは後年まで陸王の弱点となった。また、ハンドシフト、手動進角、手動オイルポンプなどといった、戦前のハーレー特有の特殊な操作体系も末期のRT2が登場するまで変わらず、説明書の操縦法を熟知し手慣れた者でなければ「壊さないように乗りこなす事自体が難しい」といった点も、後発メーカーの(現在のオートバイとほぼ同じ)単純な操作体系の車種に圧される要因となってしまった。なお陸王が生産されていた時からエンジンのOHVレイアウトは実用化されていた。1936年(昭和11年)にOHVレイアウトの傑作エンジン「ナックルヘッド」を市販化したハーレー本社からもOHVエンジンでの生産を勧められたが、サイドバルブエンジンが既に軍用車両で使われ実績があったことから、あえてOHVは使用しなかった。しかし結果としてこれが後にエンジンの高性能化を妨げる要因となり、後発メーカーによる高性能で軽量な小排気量車両に押されるようになっていった。こうした事態を打開すべく、1952年(昭和27年)にはBMW単気筒バイクを参考に開発したOHV単気筒エンジン搭載のA型(グローリー)を登場させ、その後250ccのF型なども市場投入しAB,AC及びFB,FC型へと発展させているが、品質に拘りすぎた事が祟り他社との価格競争に敗退。最後まで「陸王=ハーレー」のイメージが抜けなかった事もあってか、大型車両中心の経営体質の改善に繋がる程の売り上げを達成する事は出来なかった。750cc陸王もエンジンをOHVに改良した試作品の製作まではおこなったものの、生産までには至らず倒産してしまった。雑誌『別冊 MOTOR CYCLIST』2005年12月号59P 雑誌コード08755-12
出典:wikipedia
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