平沢 進(ひらさわ すすむ、1954年4月2日 - , 実際は1954年4月1日 - )は日本のミュージシャン、音楽プロデューサー。愛称は師匠、ヒラサワ。1970年代半ばからプログレッシヴ・ハードロックバンドのマンドレイクで活動し、1979年にP-MODELのヴォーカル・ギターとしてメジャーデビュー。1989年以降はソロ活動も行っている。1965年頃、に触発されエレキギターを手に取り音楽活動を始め、1973年頃、HR/HMバンド「マンドレイク」結成。年々プログレッシブ・ロックに傾倒していき、レコード会社数社に声を掛けられるほど成長したが、1978年に解散する。解散前には既にP-MODELへの模索が始まっており、マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共にバロック音楽などをアレンジしたものを製作。音源は「配線上のアリア」として1994年にCD化されている。P-MODELデビュー前後の1978年頃から1983年頃まで、顔出しを必要としない職であることからヤマハのシンセサイザー教室の講師としても働いていたことがあり、P-MODEL新メンバーもここから選出していた。1978年、週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストにおいて、平沢の作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞する。これは入賞作品を収録したアルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた。1979年元旦に結成したP-MODELのリーダー兼ボーカリストとしてメジャーデビュー。その活動と平行して、ペンネームでの楽曲制作を行い、プロレスラー・長州力の入場テーマ曲であるオリジナル曲「パワー・ホール」を「異母犯抄」というペンネームで作曲した。また、アーティストプロデュースも行い、シンセサイザー教室の生徒だった折茂昌美、足立眞理を「Shampoo」として、P-MODELのコピーバンド大会優勝者「PEVO」をメジャーデビューさせる。二組は現在でも平沢と親交を続けている。1984年、実験的サンプリングユニット「旬」を結成。以後断続的にアルバムを発表していくが、1996年を最後に活動していない。1988年12月、P-MODELが「凍結」と呼ぶ所の活動休止を宣言。1989年1月にはファンクラブ会員に全編CGで作られたビデオ『CG年賀状』が送られP-MODEL解散の経緯とソロ活動開始の発表を告げ、同年9月、アルバム『時空の水』リリースにてソロデビュー。同時期に所属事務所をMODEL HOUSEからアイスリープロモーションへ移籍する。1990年代からはソロ活動に平行して、ヤプーズ、島崎和歌子、宮村優子らに楽曲提供し、アニメ作品の音楽製作にも進出。『DETONATORオーガン』、『剣風伝奇ベルセルク』、2000年代には『妄想代理人』や映画『千年女優』、『パプリカ』の音楽を手掛ける。1991年、ツアーライブ「ヴァーチュアル・ラビットツアー」においてP-MODELを「解凍」宣言し、3年間限定活動という制約をつけて活動再開。その後アルバム2枚を発表して1993年、P-MODELが「待機」として再度一時的な休止を宣言。1994年、7月8日より翌年の1995年3月31日まで『平沢進のテクノ実験工房』がFM群馬にて放送される。同じくパーソナリティーを務めたのは、上野洋子(元ZABADAK)と改訂P-MODELメンバーとなる福間創だった。この番組の内容は後にカセットテープで平沢の当時のファンクラブ(HIRASAWA BYPASS)より限定発売された。同年、P-MODELの「改訂」を終え活動再開。1996年11月15日の東京・新宿リキッドルームにおいて、オールナイト・イヴェント“Unfix ♯3 コミュノ・ハイブリディア”が開催された。平沢を含むP-MODELのメンバー4人がそれぞれソロステージを行うというものだったが、平沢は欠席。理由は「風邪のため」と発表されたが、数日後平沢自身がGHOST WEB上において「私は風邪ごときで休むような人間ではない。休んだ本当の理由は言えないが」という発言がなされた。1997年、平沢はそれまで所属していたアイスリープロモーションを離脱し、自ら新事務所ケイオス・ユニオンを設立した。新事務所発足の手紙によると、前年の欠席は「殺人的なスケジュール」による平沢の心身の不調だったものと書かれている。公式ファンクラブも「HIRASAWA BYPASS」から「Green Nerve」と変更する。「HIRASAWA BYPASS」から発売されていたVHSやグッズなどは入手困難となるが、現在では「Green Nerve」より一部がDVD化・グッズの復刻がされている。1999年、プログレッシブ・ロック・バンド、Cluster(クラスター)のメンバーであるRoedelius(レデリウス)および小西健司(4-D・P-MODEL)と、ネット上でのやり取りだけでコラボレーションを行い、「Global Trotters」としてアルバム『Drive』をリリースする。自らが手がける楽曲では独特の裏声を駆使した歌唱法で歌い上げ、歌詞でも「君」を「キミ」と表記するなど特徴的なこだわりが見られる。2000年12月、P-MODELが「培養」と呼ばれる所の活動休止を宣言。平沢に活動再開の意思は無く、事実上の解散である。同年、アルバム通算8枚目となる「賢者のプロペラ」よりケイオス・ユニオンからCDを発売。2001年7月、「Hirasawa Energy Works」と名付けられたプロジェクトがスタート。これは必要な電気エネルギーの全てを太陽発電に委ねて音楽製作を試みるプロジェクトであった。この際にアルバム『SOLAR RAY』が製作される。その後太陽発電及び、このプロジェクトに賛同するファンの協力による自然からの蓄電(エナジーハンティング)のみを利用したライブ「SOLAR LIVE」を敢行する。このプロジェクトはNHK BS2やTBSで特集された。この時作られた自宅スタジオ「ソーラースタジオ」は現在でも使用されている。2003年、イラク戦争に際して、これに対する抗議の意思を表すべく「殺戮への抗議配信」と題し、自らの楽曲「高貴な城」「Love Song[2003年バージョン]」の無料配信を行った。これは2013年1月現在でも公式サイト内から無料でダウンロードが可能である。2003年3月、ペンネーム「坂田四郎」名義としてゆいこのシングル「陸の人よ」(アサヒビール『穣三昧』CMソング)の制作を手掛けている(CM使用部分は平沢が作曲、残りはゆいこ作曲)。NHK『おかあさんといっしょ』の2003年10月の歌「地球ネコ」を作詞作曲(歌唱は今井ゆうぞうとはいだしょうこ)。幼児向けの番組に提供された楽曲ではあるが、歌詞を多少シンプルにしているだけで平沢の楽曲スタイルは一貫して崩されていない。2006年12月に同番組内で再放送されている。2007年より今までの「インタラクティブ・ライブ」とは異なる「ノン・インタラクティブ・ライブ」として「LIVE PHONON 2550」を開催。その後も継続的に開催しており、ライブDVDも合わせて発売されている。2008年6月、イタリアのデス・メタル系ヴォーカリストRiccardo Brett (InhVmaN)との共作でマキシ・シングル「Tetragrammaton (テトラグラマトン)」をリリース。2011年6月24日、「パレード・パンクの期間労働者」を名乗るステルスマンなる人物にオフィシャルサイトを占拠され、「原子力」という楽曲(P-MODELの「BOAT」を編曲・歌詞を改変したもの)を2011年6月29日まで無料配信される。後に平沢はステルスマンから奪った「原子力」のカラオケ音源をオフィシャルサイトで無料配信した。2015年11月、13thアルバム「ホログラムを登る男」発売。ここでは、主にソロについて記述する。マンドレイク、P-MODELについては各項を参照。ソロ作品の殆どはコンセプト・アルバムである。特に1994年からインタラクティブ・ライブを開始して以降はその傾向が強まり、7th「救済の技法」ではインタラクティブ・ライブ「WORLD CELL」のストーリーに沿ってアルバムが制作されている。ただし11th「点呼する惑星」では最初からアルバム中でストーリーが組まれ、それを解体、再構築する形でインタラクティブ・ライブのストーリーが作られている。P-MODEL時代の音楽性の変遷と同様あるいはそれ以上に、P-MODELからソロへの移行はかなり異質なものへの転換が意図されている。「結果それでこそヒラサワ、あるいは完全に裏切られたという反応を期待しており、それなりに成功したおかげで今日までソロ活動を続けることができた」と還弦主義8760時間のイントロダクションで述懐している。P-MODELとの主な差別化はストリングス・セクションの大々的な導入と、アコースティック・ギターの使用と述べている。ストリングスの音についてはメロトロンのような本人いわく「暗い音」を好んでおり、現在はEast West社の「Hollywood Strings」を使用。12th「現象の花の秘密」で大々的にフィーチャーしている。かつてはソロでシャウトを使わないという制約も設けていたが、2009年に「Mirror Gate」で解禁した。バンドにおける制約を排したなんでもありの音楽性が意識されており、ソロのための習作としてマンドレイクの楽曲「飾り窓の出来事」のリメイクが行われていることからも分かる通り長らく離れていたプログレにも接近している。このため中野泰博はUnreleased Materials vol.1のライナーノーツで平沢の音楽性を「現代のプログレ」と評している。このなんでもありのスタイルはP-MODEL時代生活のために請け負っていたCMソング等の仕事によって培われたという。「All Performed by SUSUMU HIRASAWA」とクレジットされている通り、ソロ活動では一貫して独力での楽曲制作が意識されている。ソロ活動へ移行する決定打はKORGのM1シンセサイザーの登場であり、M1の登場により家で打ち込み、スタジオで足りない部分と歌を録音というレコーディングスタイルが実現し、ほぼ独力で楽曲制作ができる環境が整った。4th「AURORA」以降はゲストミュージシャンすら排し、PV制作のために購入したAMIGAのシーケンサ「Bars&Pipes」を用いた完全な独力での楽曲制作へと移行する。以降は「打ち込みのアンサンブル+声+ギター」という構成がソロ作品(及び後の核P-MODEL)の決定的な特徴となる。元々平沢は生演奏におけるミュージシャン固有のニュアンスを排したかったと述べており、楽曲制作及びライブにおけるこのスタイルは当然の帰結と言える。そのため、P-MODELの再結成やソロ活動初期のようなバンド形式での活動には後ろ向きの態度をとる。しかし、2004年には一人P-MODELともいえる、核P-MODELを活動開始。2014年には元メンバーの田中靖美と福間創(ライブのみ)、PEVO1号がゲスト参加している。5thは当初90年代版のThe Dark Side of the Moonを意識したコンセプト・アルバムを制作する予定だったが、その途中でタイランドへと渡航し(当初は事務所の人間に無理矢理連れて行かれたとSP-2で述べている)、そこで出会ったSP-2(後述)の影響を受け作風が大幅に変化した。同時期に活動を再開したP-MODELでの活動においても平沢ソロとの融合が図られ、民族音楽とテクノポップを融合した「アジアン・テクノ」を打ち出した。21世紀以降アメリカ同時多発テロ事件やイラク戦争への疑問から、初期P-MODEL以降距離をとっていたディストピア的な世界観を前面に押し出たメッセージ性の強い楽曲を多く発表するようになる。その後、還弦主義8760時間にて過去曲の弦楽的アレンジ作品のリリース、前述のHollywood Stringsの導入と現象の花の秘密など、より弦楽的なアプローチを強めて現在に至る。1995年頃からタイのサオプラペーッソン(saopraphetson、สาวประเภทสอง:第二の女性/平沢の著書やHPでSP2とも表記されることがある)に深い関心を示し、繰り返し現地を訪れ、レコーディング時にコーラスとして協力を仰いだり、ライブアクトとして招聘などをしたことがある。(本人はこれを「タイショック」と呼んでいる。)これらの事から東南アジア方面の楽器や音楽の影響を大きく受け、作風にも大きな変化が表れている。「テクノ実験工房」でも放送回数が増えていくに連れて、東南アジアの影響が強くなっていった。その後、2004年に平沢と親交が深かった9人のサオプラペーッソンを追悼するアルバム『SWITCHED-ON LOTUS』が製作される。サオプラペーッソンの存在そのものが、創作意欲に大きな影響を及ぼしていると本人は語っており、彼女たちに対して大きな尊敬を以て接していることがその言動から見て取れる。1994年から1998年、2000年、2007年にはファンクラブ旅行「万国点検隊」を開催。主にタイ王国を舞台とし、インタラクティブライブで行われるようなゲームが展開されている。1995年、1997年にはインタラクティブライブやアルバムの物語の続編が行われた。また、SP-2も協力しておりストーリーの登場人物になることもある。インターネットについてもその可能性に反応しており、1994年よりAMIGAを用いた「インタラクティブ・ライブ」と題されたスタイルのライブを敢行。会場に仕掛けられた様々なインターフェースによって観客の行動がライブの進行に影響を及ぼす仕組みになっており、それらの現象に応じて演奏される楽曲や展開に変化が起こってゆく、アクトと観客の双方向性を重視した内容となっている。更に、インターネットを通じてライブの進行度や会場の音声(または映像)をリアルタイムで配信し、会場に足を運ばなかったリスナーも「在宅オーディエンス」として、単に会場の様子を知るだけの存在ではなく、ライブ用に特設されたWEBサイト上で、ライブの進行に何らかの干渉を可能とするなど様々な試みが行われている。これらが評価され、2001年に「インタラクティブ・ライブ・ショウ 2000 賢者のプロペラ」が、(財)デジタルコンテンツ協会と経済産業省の共催する「デジタルコンテンツグランプリ2001」において、経済産業大臣賞及びエンターテイメント部門最優秀賞を受賞している。また、改訂P-MODELではインターネットをキーワードとしており、オフィシャルサイトではライブツアーやレコーディングの模様をMPEGファイルとして配信、各メンバーが個人ホームページを開設するなどした。平沢も個人ホームページ「Ghost Web」開設。このホームページは1996年から2006年まで観覧可能だった。パソコン黎明期から音源のMP3に対して関心を持ち、1999年にソロ10周年・P-MODEL20周年記念として行われたプロジェクト「音楽産業廃棄物 P-MODEL OR DIE」において、P-MODELメンバーがMP3を用いて各自宅のみで楽曲を作成したり、MP3でファンがP-MODEL楽曲をリミックスするイベントも開催された。楽曲のダウンロード販売に際し、障害となるメジャーレーベルとの契約を1998年頃に自ら終了させている。2011年3月にはフリージャーナリスト・市民メディア向けに楽曲を無料配信。2009年は平沢進にとってデビュー30周年、およびソロ活動20周年にあたる。そのため、9月より「凝集する過去 - 還弦主義8760時間」というプロジェクトを開始。Twitterアカウントを開設し進捗状況の報告を行い、いくつかの発言がインターネット上で話題となった。2011年8月には、Twitterにおける平沢のフォロワー数が5万人を突破したことを記念して、USTREAMにて「Hirasawa監視50000秒」なる番組を不定期で配信、平沢の作業風景を不定期で合計5万秒配信し、最終回ではギターを演奏した。2014年にはフォロワーが7万人に達し、USTREAMで「HIRASAWA追跡70000歩」を不定期に配信。平沢がつくば近辺、タイ王国へ合計70000歩散歩する内容となっている。2012年6月にはニコニコ生放送に出演。約88000人もの来場者数を動員し、ファンのリクエストに答えて同年11月23日にもニコニコ生放送に出演し、こちらも約70000人が来場したそれまで権利関係に疎かった平沢は、自分の楽曲の権利が出版会社に永久譲渡という形で契約されていることを知る。日本音楽著作権協会(JASRAC)によって集金された金から出版会社を介して50%を天引きされた額がアーティストの手元に渡るが、その出版会社に納められた残りの50%の額がどのように運用されるのか説明を求めたところ「プロモーションに努める」との回答のみで、どのようなプロモーションを行い、どれだけの対費用効果があるのか、平沢が納得できるだけの具体的な回答が無く「自分の権利が自分の選んだ出版会社と契約できないのは如何なものか」と平沢曰く「一回ゴネる」。その後、1999年にはP-MODELのアルバム『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』をMP3で配信することを発表し、それに伴う大手レーベルからの撤退を発表する。その後は著作権管理団体をイーライセンスに切り替えているが、P-MODELとして活動した初期の楽曲については権利の奪還が不可能であり、2010年に平沢が発売した『突弦変異』の収録曲の一部は、P-MODEL時代のセルフカバーであるにも関わらずJASRACに著作権料を支払ったことを明かしている。現在、平沢の新作CDについて販売方法は所属事務所の直売によるインターネット通販が中心となっており、店頭在庫が存在する店舗はタワーレコードやHMVの様な大都市部などのインディーズレーベルを大々的に扱っているCDショップに限られ、一時期は「賢者のプロペラ」より前の旧盤の個別入手は極めて困難であった。ただし、一部映画のサントラ作品はそれには含まれず全国流通しており、ソロアルバムについては2014年現在全て再版されている。また、版権がポリドール(ユニバーサルミュージック)、日本コロムビアにある一部のアルバムについてはiTunes StoreにてAACファイルの形で入手することが可能になっている。2014年現在では『HALDYN DOME』の発売と『太陽系亞種音』の再発により、ほぼ全ての既発表音源がオフィシャル通販で購入可能となった。MP3ファイルについては公式ウェブサイト内において未CD化曲の販売を行っており、また、ニューアルバムをリリースする度に収録曲の中から一曲またはアウトテイク数曲を無料配信している。音楽業界及びJASRACの著作権管理体制については厳しく批判している反面、リスナーによる二次利用については「資本主義と相容れない音楽の性質」として黙認しており、前述のニコニコ生放送でもMAD動画に対して好意的な反応を示している。動画サイトにおける権利者削除の対象も「平沢進の亜種音TV」をはじめとするインターネットコンテンツや新曲に留まる。日本製のエレクトリック・ギターメーカー各社が海外製品のコピー製品量産から脱却し始めた1980年代初頭、メーカー各社の脱コピー・オリジナルデザインブームが起き、数多の国産オリジナルデザインのエレクトリック・ギターが生産、輸出されていた。その中でも東海楽器製造の製造・販売を行うアルミニウム製ギター「Talbo」の発売直後(1983年)からのユーザーとしても知られ、その素材やデザインの特異性に惹かれ使用を続けていた。しかし、長年の使用による消耗から補修を要した際、製造元の東海楽器が経営悪化による影響からTalboの生産を打ち切っていた。この事から補修が不可能となったため、暫くの間使用をしていなかったものの、2012年に同型のTalbo(ゴールドカラー)を池部楽器店が主宰する"TALBO Secret FACTORY"において補修・改造を施し、「TALBO-ASTRO」として登場している。なお1994年には旧Talboの引退に伴い、Talboと同シェイプの木製ギター「PHOTON」(フェルナンデス製)を、2004年からはTALBO Secret FACTORY制作のオリジナルTalbo「ICE-9」を所有しており、いずれもメインのステージギターとして用いられた。2013年以降は新たなメインギターとして、HISASHI(GLAY)とTALBO Secret FACTORYの共同で制作されたギター「EVO」の平沢モデル"0101Z"を使用。通常仕様のものに加えてシングルコイルピックアップを搭載した独自仕様の2本を使い分けている。1992年以降はカシオ・FZ-1を改造し、パイプオルガンのパイプのように並んだチューブ管を介して鍵盤を操作するMIDIトリガーの「チューブラHz(ヘルツ)」を、2001年開催の「LIVE SOLAR RAY」以降は節電のため、自転車の車輪を改造したダイナモ発電装置を用い、その電気で作動させたMIDIトリガーのスイッチを押すことで出音する楽器「グラヴィトン」を使用していた。2008年の「PHONON2551」からは楽器としてテスラコイルを、2009年の「Live 点呼する惑星」からは発光ダイオードの光を遮ることでMIDIを操作する「レーザーハープ」を使用している。ヤマハ社製「Miburi」の初期からの愛用者でもある。この「Miburi」は専用トリガーが専用着衣の中に内蔵されており、それを着た人間の動きによってシンセサイザーが演奏できると言うシステムである。同様にファミリーコンピュータの周辺機器であるパワーグローブを改造した「データグローブ」なども、P-MODEL・ソロにおけるライブで使用されていたが、近年では使用されていない。1987年にはCG制作のためにAmigaを導入。1990年代初頭から『白虎野』まではAmiga用ソフトの「Bars'n Pipes」などで制作した音源をレコーディングなどにも流用し、2003年までのインタラクティブ・ライブは映像オペレーティングもAmigaで駆動されていた。また、この縁から2005年発表の「AmigaOS 4.0」で起動音を手掛けている。なお、Amigaは「今やAmigaを維持するのはクラシックカーを維持するようなもので、コストがかかる」として、現在は全てMicrosoft Windows環境に移行。2003年の『BLUE LIMBO』以降導入したケークウォークの「SONAR」を中心に、ストリングス音源には2012年の『現象の花の秘密』以降導入された、EASTWEST製のソフトウェア・シンセサイザーが主な機材となる。「白虎野の娘」と「確率の丘」には「アマチュアでも使っているごく普通の廉価なヴォーカルエンジン」を使用していることを公式サイトで明らかにし、具体的にはLOLAであると明らかにした。また、平沢はこのヴォーカルエンジンを「お姉さん」と呼んでいるという噂があったが、これも同誌の中で本人が否定した。ただし、平沢はヴォーカルエンジンのことを「お姉さんは磨けばプロになる。」と表現している。この他、合成音声に関してはAmigaOSに付属するスピーチ・シンセサイザーの「Say」コマンドを1988年頃から用い、ライブの出囃子、またはP-MODELの楽曲「WIRE SELF」「ERROR OF UNIVERSE」、平沢の楽曲「QUIT」「UNDOをどうぞ」などで確認する事ができる。P-MODEL時代から自宅録音で製作された作品が多数あり、『賢者のプロペラ』以降のアルバムについては全て自宅スタジオの「studio WIRESELF」で録音されている。Hirasawa Energy Works開始時は、120Wのソーラーパネル2枚のみをやぐら型のタワーに取り付け、残りの2枚は窓際に立てかけている状態であったが、後に4枚全てをタワーへ設置した。「studio WIRESELF」自体は幾度の移転を経ており、2013年から稼働されている現行のスタジオは一般的な住宅用太陽光発電システムが搭載されているため、レコーディングに用いるための蓄電設備は用意されていない。自宅スタジオの稼働を開始した初期はハードウェア・シンセサイザーやミキシング・コンソールを使用していたことで、電力使用に多大な制約が生まれていたが、後に全面ソフトウェア・シンセサイザー環境へ変更し、大幅な消費電力削減が図られた。エコロジー、ことエネルギー問題への意識に目覚めてからは、それまで所有していたシトロエン・エグザンティアをインターネットオークションで売却し、トヨタ自動車のプリウスを購入。また、近場であれば自転車での移動を行い、用途によって通常のアップライト自転車とリカンベント(米Burley社の「Limbo」)を併用する。リカンベントは「RIDE THE BLUE LIMBO」のPVや、ライブ『LIMBO-54』などの作品で搭乗している。
出典:wikipedia
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