Global Hardcore Crown(グローバル・ハードコア・クラウン)は、プロレスリング・ノアにおいて認定されていた王座の1つ。通称「白GHC」と呼ばれる。GHC無差別級王座のみが存在していた。秋山準が創設、タイトル管理委員長を務める。三沢光晴が存命時、最高顧問であった。当初はシングル王座であったが、一時期タッグ王座へ改定されたプロレス史上初のチャンピオンベルトである(詳しくは「志賀賢太郎とパンパーズの時代」を参照)。2004年春に秋山準の提唱によって誕生した、プロレスリング・ノアの新王座である。設立背景には、地方大会がいまひとつ盛り上がらない現実があったため、「タイトル戦の無い地方大会をこのベルトで盛り上げる」と考えた秋山が独断で作成を企画した。さらに、それに理解を示した当時の代表の三沢光晴のポケットマネーから資金が支払われた。そのため三沢を特別顧問として認定した。原則として首都圏を除く地域、つまり地方会場限定でタイトルマッチを行う事が定められた。またファンサービスの一環として、会場入口で売られている「のあのあくじ」の当選者が立会人として認定証をリング上で読み、試合後ベルトを受け渡し記念写真を撮影するというサービスが行われていた。チャンピオンベルトの色は中央が本家GHCと違う銀色で、チャンピオンベルト部分は秋山のコスチュームと同じ白色である。これは、管理委員長のイメージカラーである意味の他に、白色はどんな色にも染められるということで、この王座は、王者の色に染められる、つまり王者の方針次第で王座の特徴が変わるという意味がある。無差別級王座(ただし「後述」の例外有り)で、どんな階級の選手でも挑戦が可能。その他、試合前に選手権者、挑戦者、管理委員長の秋山が協議を行い、ルールを決定する。多くの場合が「15分一本勝負、引き分けで王座移動」であるが、選手権によってルールは変わることになる。なお挑戦資格は、原則として無差別級とする一方、「プロレスリング・ノアに利益をもたらす選手のみとする」と、選手権ルール(団体発行のパンフレットに掲載)に明記されている。タイトル創設と同時に、創設者の秋山準が方向性を示す意味で初代王者に就く。初防衛戦の相手には前年のシングルマッチで敗れていた佐野巧真を指名し、2004年4月18日に博多スターレーンで実施。秋山が因縁を清算する形で勝利を収め、初防衛に成功した。ただ、当初は試合決着のルールを巡って双方の意見が合わず、試合開催が危ぶまれる一幕もあった。3カウントによる決着を主張する秋山に対し(自分が前年この形で敗れているため)、佐野はKOやロストポイント制の採用を固持。埒の明かない状況を見かねた最高顧問の三沢光晴の判断により、秋山は3カウントを奪った場合のみ勝利、佐野はギブアップもしくはKOを奪った場合のみ勝利という方式に落ち着いた。その結果、秋山は小橋や三沢を失神させたこともあるフロントネックロックを繰り出すも、『3カウントのみで勝利』というルールにより、レフェリーは佐野に「ギブアップ?」と聞かなかったり、一方で、佐野は決め技として使うことの多いノーザンライトボムを放つも、『KOまたはギブアップのみで勝利』により、フォールしてもカウントされないといったシーンが見られた。2度目の防衛戦は、秋山が自ら命名したノア・ヘルスクラブ(川畑輝鎮、泉田純、井上雅央)と対戦。しかし、挑戦者1人を1度の防衛とカウントせず、3連戦に全て勝利して初めて1回の防衛とする形を採用。これは秋山が彼ら三人を「ノア2軍」としていたためである。ヘルスクラブの3人はそれぞれに奮起するも、秋山の牙城は崩れることなく、2度目の防衛に成功した。それぞれに勝った時は、「1と1/3回の防衛」のように呼ばれていた。2004年10月、ジュニアヘビー級の丸藤正道が体格の差を越えて秋山からタイトルを奪取(場外リングアウト勝ち)。初防衛戦の相手にはまだデビュー4か月の潮崎豪が名乗りを挙げた。この試合は15分一本勝負で行われ、時間切れ引き分けなら潮崎の勝利というルールであったが、丸藤が時間切れ12秒前ギリギリながら実力の差で押し切り防衛に成功。その2か月後、今度は自らの父親と同い年の永源遙と対戦。こちらは潮崎戦よりさらに時間の短い10分一本勝負で行われ、時間切れなら永源の勝利となるルールであった。途中、永源は得意のツバ攻撃などで丸藤を翻弄するも、最後は勢いに勝る丸藤が永源を振り切り、2度目の防衛に成功した。2005年3月、モハメド・ヨネが丸藤からタイトルを奪取。ここからしばらくは、正にハードコアの名に相応しいタイトル戦が続く。2005年に大阪市で行われたヨネと森嶋猛の試合は「時間無制限1本勝負、チェーンデスマッチ」に、同年10月に徳島で行われたヨネとスコーピオの試合では「30分一本勝負、反則裁定無し」となり、激しい戦いを繰り広げていた。徳島の試合ではスコーピオがタイトルを奪取したものの、ハードコアな試合の代償は重く、スコーピオは足を痛めて救急車が出動、病院に運ばれる事態となった。2006年9月、志賀賢太郎がスコーピオからタイトルを奪取。難病を克服し、苦労人として知られる志賀の初の王座獲得とあって、多くのファンが祝福した。おりしも志賀はパンチパーマの「アニキ」キャラでブレイク中であり、以後の防衛戦でも罰ゲームやリングより転落したら負けといったルールの導入など、オープンな発想でタイトル戦を盛り上げていった。防衛3戦目はZERO1-MAXのリングにて、神風(現:KAMIKAZE)を相手にランバージャックデスマッチで行われた。こうした動きはタイトル管理者の秋山準も「白GHCは志賀にふさわしいベルトである」と評価していた。志賀への挑戦者の一人だった川畑輝鎮は、白GHC敗戦の罰として強制的にパンチパーマをかけさせられたが、これがきっかけで志賀とタッグを組む機会が増え意気投合し、ついには志賀に「どうしても川畑とベルトを獲りたい」と言わしめるまでになった。この理由でタッグトーナメントによる王座決定戦を主張し、志賀が王座を返上した為一旦空位となり、2007年2月の後楽園ホール大会及びディファ有明大会で王座決定トーナメントが開催された。結果、志賀&川畑のタッグチーム「パンパーズ(パンチパーマブラザーズの略)」が決勝に勝ち上がった潮崎豪&谷口周平組との対決を制し、第6代王者となった。パンパーズは特に若手の挑戦を歓迎し胸を貸していたが、結局タッグ王座としての白GHCはパンパーズが守りきる形となった。なお、タッグ王座に移行してからもチャンピオンベルトは1本のままであった。これは単純に費用の都合であるが、パンパーズも「絆があればベルトは1本で十分」と了解していた。2007年11月、パンパーズが互いのレベルアップを理由にコンビを発展解消することになり(後に再結成している)、白GHCもシングル王座に戻すことを決意。志賀とのパンパーズ対決を制した川畑輝鎮が第7代白GHC王者に就いた。川畑は約11ヵ月・5回の防衛を果たし、パンパーズおよびそのメンバーで2年以上ベルトを保持していた。その後、橋誠、小橋建太が王者に就く。この頃には地方限定開催の原則が薄れ、日本武道館をはじめ首都圏でも防衛戦が行われるようになった。また白GHCという呼び名が定着しているのにもかかわらず、小橋が王者になってすぐにチャンピオンベルトが紫色に変えられてしまった。創設当初のハードコアな試合も全く影を潜め、小橋と実力(格)の違う相手との15分程度の短時間制限を設けた試合を展開するのみとなっていた。2010年1月より長期離脱となった小橋は同年6月にチャンピオンベルトを返上し、その後も王座決定戦が行われず空位の状態が続いた。2012年限りで秋山もノアを退団、公式サイトからもベルトならびに歴代王者の記載が削除されたため、白GHCは事実上封印状態となった。
出典:wikipedia
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