松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業、医学博士。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。1937年から中京区西ノ京の健康相談所、1942年から京都府衛生課結核予防係、のち和歌山県衛生課長。その間、1940年に初の著書『結核』を刊行。太平洋戦争中、召集されて軍医となりビルマに派遣を命じられるが、父の友人の京都市衛生局長の助言により、内地の陸軍の結核病院に転属となる。戦後、県に辞表を提出し、大阪府の民間病院小児科に勤務、その後京都に診療所を開く。小児科の医師として診療する傍ら、久野収の勧めもあって1949年に平和問題談話会に参加、末川博、恒藤恭、田中美知太郎、桑原武夫らの知遇を得る。1960年に京都大学人文科学研究所の共同研究「革命の比較研究」などに参加する。1978年には武谷三男、野間宏、水上勉らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。1967年に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念。1967年に出版した代表作でベストセラーの『育児の百科』(岩波書店)をはじめ、数多くの著作があり、主な著作はシリーズ『松田道雄の本』(筑摩書房・全16巻)に収められた。また、ロシア語史料に基づくロシア革命史研究の開拓者としても知られ、その分野の著書も多数ある。1949年に『赤ん坊の科学』で毎日出版文化賞、1963年に『君のたちの天分をいかそう』で児童福祉文化賞をそれぞれ受賞。死後、個人蔵書は「松田道雄文庫」として熊本学園大学に収められた。
出典:wikipedia
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