『読売新聞ニュース』(よみうりしんぶんニュース)(シリーズ)は、1953年8月31日から2000年9月まで毎日午後と深夜の各10分ずつ、日本テレビと関東地方の独立局 (夕刊のみ。いわゆる5社ニュースの枠)などで放送され、さらに2002年3月から2008年3月までは日テレジータスでも放送されていたニュース番組。読売映像(旧:読売映画社。後に読売スタジオと統合)制作協力。もともとは、3社ニュースの一角。日本テレビ開局直後の1953年8月31日にスタート。初期はニュース映画。当初は『讀賣テレビニュース』という表題だった。1955年4月、ラジオ東京(現:TBS)テレビの開局で同局からも放送されるようになった。日本テレビが放送したものは読売映画社の制作によるニュース映画であったが、ラジオ東京では当初自社制作のスタジオニュースで、読売新聞記者がニュースを読み番組を進行する傍ら、解説を務めていた。1958年8月、読売テレビの開局に伴い『よみうりニュース』の放送を開始(『NTVニュース』のタイトルを差し替えて放送。この他別途「讀賣テレビニュース」も放送)。その後、読売テレビ向けと同様に日本テレビの『NTVニュース』を、「読売新聞社協力」のクレジットを付けて全国に放送した。1962年4月、名古屋放送(現:名古屋テレビ(メ〜テレ))では、開局と同時に日本テレビの『あさ7時のニュース』を『讀賣新聞あさ7時のニュース』にタイトル変更して同時ネット。名古屋テレビは1973年春に日本テレビ系列を離脱することとなるが、先述のタイトルでいつまで放送されていたかは不明(当時、名古屋では読売新聞は発行しておらず、中部読売新聞(現:読売新聞中部支社)は1975年に創刊された)。新聞と在京テレビ局の資本再編に伴い、1974年3月いっぱいでTBSでの放送が打ち切られると、これまでの日本テレビ・TBS各2日おきの放送から、日本テレビでの連日放送となり、放送時間も半年後の1974年10月からは夕方5時50分 - 6時00分から夕方5時00分 - 5時10分に移行した。さらにその後、1982年から夕方3時50分 - 4時00分の10分間に放送時間を移した(土曜日は従来どおり夕方5時00分スタート)。なお、夕刊のニュースはこれ以後原則として夕刊が配達される地域を中心に放送されるようになった(山陰中央テレビジョン放送→日本海テレビジョン放送などのように、夕刊の無い地域での放送も一部あり)。日本テレビでの連日放送体制以降、讀賣新聞東京本社内に日本テレビのスタジオが設けられ、1977年4月4日放送分よりそのスタジオから放送されるようになった。基本的には読売新聞の紙面をバックに、紙面記事からキャスターの解説を加えてニュースを伝えるという体裁だったが、1996年のタイトル改題以後はVTRも使われた。エンディングには必ずキャスター席にある東京本社の代表電話番号のパネル(後期はテロップ)を表示し、サイドに縦書きで「読売新聞社テレビスタジオ」という字幕を出していた。また、その後テレビ神奈川・千葉テレビ・テレビ埼玉でも、5社ニュース枠の5時50分 - 6時00分の枠で時差放送(週1回程度、主に火曜日。同じ内容を局を変えての実質再放送。千葉テレビでは放送後「5社ニュース」ローテーションが字幕表示されていた)された。番組のスポンサーとして、日本テレビでの連日放送体制に移行してからは午後枠に限り、東京電力の一社提供となった。ネットを受けていた局のうち、静岡第一テレビも1979年7月の開局に伴うネット開始以降、同じく午後枠は東京電力の一社提供枠として続いた。一方、大阪・読売テレビでは、1982年4月3日から2000年の終了まで、夕刊の時間帯は大阪本社独自の企画ネットとしての『読売新聞ニュース』が放送されることになった(後期は5分に縮小)。これとは別に、読売新聞ニュースの姉妹番組が相次いで登場した。1978年に『読売新聞あすの朝刊』がスタート。さらに放送開始時期は不明だが、新聞休刊日の午前中(主に10時30分からだったが、ごく初期のころは『カリキュラマシーン』『おはよう!こどもショー』やアニメ再放送枠『おーい!まんがだヨー』の枠内の8時ごろに放送されたことがあった。1月2日は除く)には「読売新聞テレビ朝刊」も放送するようになった。こちらのオープニングテーマミュージックは夕方の放送の短縮バージョンというアレンジであった。1996年3月まで(それ以前にネットを取り止めた局もあり)午後は『読売新聞ニュース(夕刊)』、深夜は『読売新聞あすの朝刊』というタイトルで放映してきたが、1996年4月からそれぞれ『読売新聞は〜い夕刊』・『読売新聞は〜い朝刊』と変更した。同時に土曜日夕刊の放送は廃止された。新聞休刊日のテレビ朝刊は1999年12月13日放送を最後に打ち切り。それ以外の『は〜い夕刊』、『は〜い朝刊』の両番組も2000年9月29日をもって放送終了となった。2002年3月に開局したCSデジタル放送・「日テレジータス」にて、読売新聞ニュースが開始された。当初はデジタルニュース(文字ニュース)も放送されていたが、やがて女性キャスターが1人で進行し、当日の読売新聞の記事を紹介するスタイルに落ち着いた。ニュース映像に関しては日テレNEWS24からの提供を受けることもあった。この番組も2008年3月28日をもって終了した。なお、同時に始まった「読売ニュースナビ」は2012年3月まで10年間続いたが、日テレ系CS放送の棲み分け(日テレジータスをスポーツ専門チャンネルの位置づけを明確にするため)に伴い終了となった。地上波での動きとしては、2004年1月から関東地方ローカルであるが、読売新聞社も制作に参加する日本テレビの番組「イブニングプレス donna」の放送が始まる。この番組では、読売新聞夕刊の注目記事紹介が行われている(ただし記事紹介は2項目のみ)。単独番組としてはいったんは2008年3月27日で終了し、翌週からは生ワイド番組「アナ☆パラ」に事実上吸収されるが、同年7月31日に「アナ☆パラ」が終了したため、再び単独番組に戻った。1982年度?までの夕方と休刊日明けテレビ朝刊のオープニングでは、オーケストラによる行進曲風のテーマ音楽が流れて、それに読売新聞の取材ヘリコプターが青空の上空を旋回し、次に画面中央からズームインする形で『讀賣新聞ニュース』のタイトル(白抜き)を出した後、東京本社社屋(旧社屋。現在は建て替えられている。当時の写真は読売新聞、読売新聞グループ本社の項に掲載)を映し出していた。1983年度?以降のオープニングタイトルは、最初に中央に地球のCGが現れ、次に地球の中心から新聞紙面のパターンが左右にフラッシュされ、『讀賣新聞ニュース』のタイトルロゴ(色はシルバー)が現れるアニメーションに変更された。同時にテーマ音楽もシンセサイザー曲に変更されている。「テレビ朝刊」も同様であるが、15秒に短縮されていたため音楽が若干編集されていた。テーマ音楽は開始当初から「讀賣新聞ニュース」「テレビ朝刊」とは別のシンセサイザー曲を用いていた。そして末期のテーマ音楽は、再びオーケストラ演奏(タイトルバックはCGを継承)となった。なお、1996年のリニューアルまでエンドカードは1枚だった。以前は読売新聞の第一線の記者(甲藤信郎・深沢史一・永井清陽)がメインに登場していたが、1988年ごろから「あすの朝刊」では、日本テレビの記者・アナウンサーや外部のキャスターらが担当するようになった。さらに「は〜い朝刊」に改題した1996年からは、読売新聞の記者と以下のような外部の女性キャスターとのペアリングとなった。夕刊に関しては、現・テレビ岩手代表取締役会長の中野士朗や、甲藤信郎が担当していた。また「あすの朝刊」末期から「は〜い朝刊」初期の土曜日には、読売新聞の英字紙「ザ・デイリー読売」の女性記者のヘザー・ハワードがレギュラー担当し、同紙からのトピックを数項目放送していた。なお、地上波の最終回(「は〜い朝刊」)は、矢玉みゆ紀が担当。G+版での最終月(2008年3月)に出演していたキャスターは、次の3人であった。ラジオ版『読売新聞ニュース』は、ラジオ東京開局の1951年12月からスタート。当時のTBSテレビ同様、朝日・毎日と交互で隔日に放送されていた。その後、北日本放送でも放送される。1974年3月にTBSラジオでの放送がいったんは打ち切られたものの、巨人戦ホームゲーム中継権の関係で、1978年から一時的に「読売新聞ニュース」の放送が復活した(詳しくは「ラジオ日本ジャイアンツナイター」を参照のこと)。ただし、巨人戦ホームゲームの中継権が完全にフリーとなった1995年4月以降は、TBSラジオでは放送されていない。一方で、1978年1月からはラジオ関東(現:ラジオ日本)より連日放送されるようになり、2012年10月からは『ラジオ日本ニュース』に改題したものの、引き続き読売新聞が協力している。また山口放送や西日本放送などでも放送を開始した。さらに1980年以降、地方FMラジオ局が次々と開局したことに伴い、『読売新聞ニュース』または読売新聞関与の情報番組もまた、放送する局が増加している。この他、日本各地のコミュニティ放送でも読売新聞協力のニュースを放送する局がある(例:エフエムもりぐち〔FM HANAKO〕『HANAKO NEWS』)。
出典:wikipedia
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