松平 直堅(まつだいら なおかた、明暦2年(1656年) - 元禄10年1月17日(1697年2月8日))は、江戸時代前期の大名。越後糸魚川藩祖。福井藩越前松平家分家初代。従五位下、備中守。子は直知、亀姫(越前松平直之正室)、娘(山口弘豊室)、娘(赤松範主室)。明暦2年(1656年)、松平光通の子として福井城下の藩主邸、御泉水屋敷で生まれる。母はお三の方(片桐氏)。光通(越前福井藩主)の一人息子であったが、庶子であったため、家老の永見氏に預けられて養育された。男子が他にいなかったため、光通は直堅を世子とする意向であったが、光通の正室・国姫の実家であり一族の越後高田藩主・松平光長やその母の高田殿らの圧力を受けた直堅は、延宝元年(1673年)6月20日に支族の越前大野藩主・松平直良を頼り出奔した。この際、家臣の堀十兵衛が後を追い、今庄宿あたりで帰るよう説得したが聞き入れられず、のち堀は自刃した。直堅が直良を頼ったのは、直良の外祖父で大野藩家老織田家の祖である津田信益が、かつて直堅の母、お三の方の実家である片桐氏の片桐且元に仕えていたため、それを頼りに直良の母に仕えていたお三の方が織田家の推薦を得て光通の側に仕えることとなったという経緯があったためである。光通は幕府に直堅は「公子ではない」と届け出た。その後、越前福井藩では同じく圧力を受けた光通と国姫の自殺などで混乱が続き、後継者問題が長く尾を引くこととなる。直堅は延宝3年(1675年)5月21日に将軍・徳川家綱に御目見し、12月26日従五位下、備中守に任じられ、賄料1万俵江戸定府の諸侯に列した。延宝7年(1679年)9月13日、赤坂に屋敷を拝領する。元禄10年(1697年)正月17日に死去。享年42。跡を長男の直知が継いだ。
出典:wikipedia
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