YB-49は、アメリカの航空機メーカーであるノースロップ社が、第二次世界大戦終結直後にアメリカ空軍のために開発した全翼重爆撃機の試作機である。2機が製作されたYB-49は、同様な形状でレシプロエンジン推進のYB-35の発展型であり、同機をジェット化したものであったが、実戦配備されることはなく、より一般的な形態のコンベア B-36が採用された。しかしながら、レーダーに捕捉されにくいという機体設計概念自体は、ステルス機として知られるB-2 スピリット開発の際に活用された。B-35計画は1944年の時点で予定よりも開発が遅れており、レシプロ機時代の終焉の気配と相まって、200機の発注契約は5月にキャンセルされてしまった。それでもなお全翼機という概念自体には注目していた空軍は、試作機による試験は続けることとした。うち2機に対してはジェットエンジン推進への転換が指示された。YB-49は1947年10月1日に初飛行し、その有望性が実証されることとなった。YB-49は40,000 ft (12,200 m) よりも高空を6時間飛行するという非公式の滞空記録と、カリフォルニア州のミューロック空軍基地(当時)からワシントンD.C.のアンドルーズ空軍基地へと4時間20分で飛行する大陸横断速度記録とを達成した。ジェットエンジン搭載によって運動性能は向上し、B-35比で100Kmの速度アップを達成したが初期のジェットエンジン共通の燃費の悪さのために、航続距離と爆弾搭載量は半分となった。機内のスペースは横方向には広いものの、全翼機ゆえに高さが確保できず、当時の核爆弾(Mark 3)は搭載できなかった。その特殊な形態に伴う操縦の難しさを指摘する声がテストパイロットからあった。失速間際になると勝手に機首が上がって上転する挙動が出現することが報告されていた。その時のパイロットは、直後に機体を横滑りさせて安定を取り戻せたため、墜落を回避することができた。1948年6月5日、グレン・エドワーズ大尉ら5人が搭乗した試作機は、テスト飛行中に墜落し全員が死亡した。この事故によってミューロック陸軍飛行場(Muroc Army Air Field)と当時呼ばれていた基地が、エドワーズ空軍基地と名前が変更された。事故原因は、墜落場所で回収されたメモ用紙によって解明された。メモには『これからエンジンをストールさせて失速させるテストを行う』とあった。その実験によって機体は失速して上側に反転、強い抵抗を受けた両翼がエンジンの付け根部分から破断して墜落したとされた。1948年9月には、空軍はノースロップに対し偵察機型のRB-49Aとして発注し、コンベアを生産担当企業としたが、翌年の1月までには計画は中止となってしまった。空軍テストパイロットのロバート・カーデナス少佐による報告の中で、機体が非常に不安定であると指摘したことが中止の一因といわれている。空気力学の専門家らは後にこの不安定性を説明する理論を提案した。YB-49は、YB-35からレシプロエンジン駆動のプロペラを外し、ジェットエンジン推進にしたものであるが、この際に本来であれば翼を完全に設計し直さなければならなかったという。彼らは、YB-35においては、作動中のプロペラの作る回転面が気流に対して一種の安定板として機能したため、不安定性の問題が生じなかったのだと指摘している。プロペラ機であったYB-35については1949年を通して試験飛行が続けられたが、爆撃機としての各種問題やエンジン・ベイの火災などに悩まされた。1950年3月15日には計画中止が言い渡され、偶然にも試作機はタキシング時の事故とそれに続く火災により全壊した。計画中止を受けて、残存していた機体も全てスクラップにするように当局から命令された。B-35・B-49の両計画中止に関して陰謀だとする説(陰謀論)が長年に渡って唱えられている。陰謀だとする人は、ノースロップの社長であるジャック・ノースロップに対し、空軍長官スチュアート・シミントンが政府の影響下にあるコンベアとの合併を強要しようとした、と主張する。さらに、ノースロップが拒絶した際に、長官は計画中止の手配をしたという。1979年(1981年の死去の直前)、テレビ取材を受けたノースロップ自身がこうした告発をしたことによって、陰謀論は真実味を帯びた。さらに、1949年に開かれたコンベアの不正競争疑惑についての議会公聴会で、ノースロップは報復を恐れたためにシミントンをかばって虚偽の証言をしたともいう。一方のシミントンは、このような説は全く事実無根であると一貫して主張している。こうした陰謀論に対して批判的な者は、多くの主要な問題を抱えていたことももちろん、YB-49にはB-36とは違い核兵器の運搬能力がなかったという点も計画中止に寄与したのだと指摘している。さらに、YB-49が中止されたのと同時期に、ノースロップが要撃機・F-89 スコーピオンを入札したことも陰謀論を否定するものだとしている。全翼機の操縦は人間のみの力では難しく、コンピュータによる操縦のサポート(フライ・バイ・ワイヤ)を受けられなかった当時は、たとえ飛行特性が良好でも実用化は困難であったという見方もある。全翼機の実用化はジャック・ノースロップの悲願であり、YB-49の開発中止によって彼の悲願は打ち砕かれた。後にノースロップ社が全翼機B-2の開発中、当時最重要の軍事機密であったにもかかわらず、軍は特別の許可を出して、病床にあって余命いくばくも無いジャック・ノースロップに特製のB-2の模型をプレゼントし、実用機である同機のことを明かした。それを見た彼は「今こそ、神が25年の余生を与えたもうた理由が分かった」と涙を流したという。
出典:wikipedia
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