ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。下院議員、CIA長官、第43代副大統領、第41代大統領を歴任。日本では、第43代大統領でありファーストネームが同じである長男のジョージ・ウォーカー・ブッシュと区別するために、「父ブッシュ(パパブッシュ)」「大ブッシュ」「ブッシュ・シニア」と呼ばれることもある。2016年5月現在、存命中のアメリカ大統領経験者では最高齢であり、死去した大統領を含めてもジェラルド・R・フォード(93歳165日)、ロナルド・レーガン(93歳120日)に次ぐ長寿の大統領である。左利き。ブッシュ家は、女系の先祖がイギリス王室に連なる家柄である。プレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の次男として生まれた。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親はコネチカット州のリベラルな共和党上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン」に在籍していた。ブッシュはグリニッジのグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後、国への義務を果たすべく海軍に志願。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、アベンジャー雷撃機のパイロットに任命される。ブッシュは1942年より空母サン・ジャシントに乗り組み太平洋戦線に従軍した。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、二回の撃墜も経験した。少尉時代の1944年マリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機を撃墜されているが、いずれも味方に救助され生還している。二度目の際には敵地近くであり、同乗していた代理銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等軍曹は戦死し自身も四時間にわたって漂流し捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦「フィンバック」に救助された。父島では後に米軍捕虜が日本軍により全員殺害、嗜食される父島食人事件も起こっており、危うく難を逃れた形となる。翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月、サン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、殊勲飛行十字章(2度目の撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらにエア・メダルを3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章 (Presidential Unit Citation) 1回と全部で5個の勲章を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日にバーバラ・ピアスと結婚し、6人の子供をもうけた。カップルの最初の住居はミシガン州トレントンの小さな賃貸アパートだった。帰国後、イェール大学に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは試合前にベーブ・ルースと対面している。入学した年には父プレスコット・ブッシュも属した秘密結社スカル・アンド・ボーンズに加入した。 1948年経済学の学士号を取得し卒業。父親の上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュのテキサス州知事および大統領、次男ジェブ・ブッシュのフロリダ州知事などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、ジョン・アダムズおよびケネディ家と比較された。長男のW(ウォーカー)は父H(ハーバート)が22歳という若さで誕生しており、息子が任期中に生存している珍しい例になった。H(ハーバート)は眼鏡をかける事が多いのが特徴である。1964年にブッシュは、テキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローに対抗して上院議員選に出馬し、政治家に乗り出した。ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から下院議員に選任された。彼はその後1970年に、民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに、二度目の上院議員選挙で敗れた。ブッシュは70年代を通してリチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォード大統領の下で、共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)、CIA長官(1976年1月30日 – 1977年1月20日)、危機委員会評議員などの要職を歴任した。1980年に彼は共和党の大統領指名を争う予備選に出馬する。そこで彼は、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗。党大会直前に、レーガンに副大統領候補として指名され、1981年に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断ったことをきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。ブッシュは外交・安全保障に並々ならぬ関心をもった副大統領であり、後に敵対することになるサッダーム・フセイン大統領のイラクとの関係強化の決定にも関わっている。2期8年にわたりレーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選では、マサチューセッツ州知事・マイケル・デュカキスに地滑り的な大勝をおさめた。現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来144年ぶり4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶり2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選が不利になる」というジンクスを覆した。"→ 詳細は「1988年の大統領選挙」の項を参照。"1989年1月、第41代大統領に就任した父ブッシュが最初に取り組んだのは国内における麻薬の浄化であった。彼はその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのマヌエル・ノリエガ政権に対する侵攻を決意する(パナマ侵攻)。12月、2万4千人の米軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、翌1990年1月に逮捕されアメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席した。1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。マルタ会談から8ヶ月後、1990年8月2日にサッダーム・フセイン率いるイラク軍が隣国クウェートへ突如侵攻すると、国際連合は史上初の武力行使容認決議を可決、拒否権で停滞してきた安保理では歴史的なことであり、これを父ブッシュは新世界秩序と呼んだ。米軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した(湾岸戦争)。1991年1月17日の多国籍軍によるイラク空爆により、湾岸戦争は本格化した。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、父ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。1991年2月28日に湾岸戦争に勝利し、中東和平会議を開き、1992年からソマリア内戦にも介入し、対外的成果を強調して同年の大統領選挙に挑んだ父ブッシュであったが、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出るなどの条件が重なり、民主党のビル・クリントンに敗北した。対日関係では米国国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に、日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物とりわけコメ、牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業の対米輸出を大幅に規制させるなど、アメリカ大統領としては異例といえる保護貿易主義を取ったため、ジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員等からも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり後に年次改革要望書が作成される事になる。国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題や資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し多額の資金援助を行ったにも関わらず日本への謝意が演説で述べられなかった事などから「金だけ出して人出さない」「大枚を叩かされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。再選をかけた1992年の大統領選ではアーカンソー州知事のビル・クリントンに惜敗。現職大統領としては1976年のフォード、1980年のカーターに続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。"→ 詳細は「1992年の大統領選挙」の項を参照。"大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからは、その妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、同じ「元大統領」としてブッシュをさまざまな非政治的な式典や被災地の慰問などに誘った。そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁のローラ夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスタープレジデントが三人もいるんですよ」と評したこともある。2012年11月23日に気管支炎でのためテキサス州ヒューストンの病院に入院。12月中旬頃に容態が悪化し、集中治療室へと移ったが、その後持ち直し一般病棟に戻っている。2013年4月25日には息子の関連資料を集めた記念図書館の開館式に他の歴代大統領経験者とともに車椅子で出席し、公の場に姿を現した。ブッシュは1期限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設や艦船につけられることになった(逆にウォーターゲート事件の揉み消しスキャンダルで辞任したニクソンや、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展したビル・クリントンの名は忌避される傾向にある)。1997年には地元テキサス州ヒューストンの空港が「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」と改名され、2002年にはニミッツ級航空母艦の10番艦が「ジョージ・H・W・ブッシュ」と命名されることになった。存命中の元大統領の名前が合衆国海軍の艦船に冠せられるのは、カーター、レーガンに続き史上3人目。1992年1月7日の来日では、今上天皇、内閣総理大臣宮澤喜一とそれぞれ会談した。この来日では、最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加。翌日、今上天皇と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。妻バーバラがとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は、慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側は、ただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。翌日、首相官邸には諸外国のプレスが大挙して押しかけたが、膝に嘔吐された当の宮澤が堪能な英語で淡々と記者会見を行っている。大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したことに怒ったブロッコリー農家から、トラックで大量のブロッコリーを送りつけられたことがある。このシーンは全世界のニュース番組で話題となっていた。太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日9時前、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔は米軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、米軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15〜20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因ではなかったかと語っている。救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後一ヶ月、潜水艦の目として、撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。なお、このとき他にも4機の米軍機が撃墜されたが、8人の米軍兵士が捕虜として日本兵により人肉食されていたことが戦後の裁判で明らかになり、日本国民はその事実に驚愕することになる。この小笠原事件は、ブッシュの対日観に長いこと影を落としたといわれている。敵国の元首であった昭和天皇の葬儀に参列したが、ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。またブッシュ機を撃墜した砲台だが、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった。
出典:wikipedia
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