LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

オットリーノ・レスピーギ

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 – 1936年4月18日)はイタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身だが、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(すなわち《ローマの噴水()》、《ローマの松()》、《ローマの祭り()》)がとりわけ有名である。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺した。ボローニャに生まれ、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受ける。1891年から1899年までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンとヴィオラをフェデリコ・サルティに、作曲をジュゼッペ・マルトゥッチに、音楽史を、古楽の専門家ルイージ・トルキに師事。1899年にヴァイオリン演奏でディプロマを取得すると、1900年から1901年までと、1902年から1903年までの2度のシーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わった。ペテルブルクではニコライ・リムスキー=コルサコフと出逢って5ヶ月におよぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けた。多くの資料では、さらに1902年にベルリンで短期間マックス・ブルッフの薫陶を受けたとされているが、エルザ未亡人はこの説を事実ではないとして否定している。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得した。1908年までムジェッリーニ五重奏団より第1ヴァイオリン奏者に迎えられている。1908年から1909年までベルリンに滞在し、演奏家や、声楽教室のピアノ伴奏者として稼ぎながら音楽的な知見を広げ、イタリア人以外の作曲家にも開眼した。ようやく帰国すると作曲に没頭し、自作のカンタータ《アレトゥーザ()》(1911年)のピアノ伴奏版の作成に熱心に打ち込む。ボローニャ高等音楽学校に定職が得られることを要望するも果たせず、やっと1913年にサンタ・チェチーリア音楽院作曲科教授に任命されてローマに移住し、最晩年まで同地に暮らした。1917年に交響詩《ローマの噴水》をローマで初演するが成功せず、自信を喪失する。しかし1918年、アルトゥーロ・トスカニーニによるミラノでの再演が大成功に終わって、作曲家としての突破口を迎えることができた。1919年に、1915年からの門弟で、声楽家でもあったエルザ・オリヴィエリ=サンジャコモと結婚する。1923年にはサンタ・チェチーリア音楽院の院長に就任し、1926年には再び院長に任命されたため、十分な時間を作曲に充てることができなくなった。それでも1935年まで教職に就いており、1925年にセバスティアーノ・アルトゥーロ・ルチアーニと共著で初歩的な教則本『オルフェウス()』を上梓した。1932年にはイタリア王国学士院の会員に任命された。晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどした。レスピーギ作品はファシスト政権にも非常に好評であったが、レスピーギ自身はまだファシズムに深入りしてはいなかった。後半生はベニート・ムッソリーニのファシスト党とぎこちない関係を続けた。それでもトスカニーニのような明け透けな批判者からも支持されており、批判者が自作を上演することを認めていた。《ローマの祭り》の初演は1929年にトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。初録音は1942年にフィラデルフィア管弦楽団、再録音は1949年にNBC交響楽団によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮であった。レスピーギの作品はアメリカ合衆国でかなりの成功を収めた。ピアノと管弦楽のための《トッカータ》は1928年11月にカーネギーホールにおいて、作曲者自身のピアノ独奏とウィレム・メンゲルベルクの指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されている。大規模な変奏曲《メタモルフォーゼ("Metamorphoseon")》はボストン交響楽団創立50周年記念の依嘱作品であった。1936年1月までは作曲を続けていたが、その後は次第に病に蝕まれ、もはや新作を完成させることができなかった。同年4月18日に心臓病から死に至り、ローマに埋葬されたが、翌1937年に亡骸が郷里のボローニャに移され、同地の霊園に改葬された。初期の擬古典主義的な習作の後、ロシア滞在を経てレスピーギの音楽語法は変化を遂げた。自由な形式、拡張された和声法、音楽表現に見られる激しい振幅が、それ以後の作品を左右する要素となっている。さらにレスピーギ作品を代表しているのが、イタリア国内のヴェリズモからの離反である。イルデブランド・ピッツェッティやジャン・フランチェスコ・マリピエロ、アルフレード・カゼッラとともに、ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させた。当のレスピーギは作品中において複調的な傾向を見せており、管弦楽曲はとりわけフランス印象主義音楽(特にクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル)の影響を感じさせる。また、レスピーギはイタリアにおける古典主義の旗手でもあり、17世紀とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、クラウディオ・モンテヴェルディやアントニオ・ヴィヴァルディの作品のほか、ベネデット・マルチェッロの《ディドーネ()》を校訂して出版した。過去の作曲家や古い様式への献身から、レスピーギを新古典主義音楽の作曲家と位置付けすることもできるが、実のところ古楽に基づくレスピーギの作品群は、「新ルネサンス様式」「新バロック様式」と呼ぶのが正確だろう。レスピーギは、古典派音楽以前の旋律様式や(舞踊組曲などの)音楽形式を、近代的な和声法やテクスチュアと好んで融合させている。方やフランスで六人組が、「新しい単純性」を、中でもウィーン古典派の軽やかさへの回帰を標榜したのに対し、一方のレスピーギは、イタリア古楽の復興、そして古楽の再作曲・構成のために古い音楽を利用したのであった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。