河村 瑞賢(かわむら ずいけん、元和3年(1617年)? - 元禄12年6月16日(1699年7月12日))は、江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。生年を元和4年(1618年)とする説もある。伊勢度会郡東宮村(とうぐうむら、現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれるが、『評伝 河村瑞賢』(博文館)によれば先祖は村上源氏で、北畠氏の家来筋であると自称していた。13歳の時江戸に出た。江戸幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり、明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模小田原藩主稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。それまで幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。幕命により瑞賢は、寛文11年(1671年)に、阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回し伊豆半島の下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米し、新たな航路である外海江戸廻りの東廻り航路を開いた。さらに翌年には、奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島の下田に至り、西南風を待って江戸に廻米し、西廻海運を確立した。また、途中の寄港地を定めて入港税免除や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した。航路開拓と同じ頃、河口付近の港では上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題がおきていたが、瑞賢は上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべきとの認識を得ていたといわれる。こうした考えは天和3年(1683年)に若年寄稲葉正休が淀川の視察に訪れた際に瑞賢が案内役を務めたことから徐々に幕府上層部に伝わることになり、翌貞享元年(1684年)には淀川河口の治水工事を任されることとなる。こうした中、安治川を開くほか、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されていた。瑞賢は霊岸島に居を構え同郷の松尾芭蕉とも交流があった。またこの間に、霊岸島に新たな川を開削している。この際に使われた測量の方法などは瑞賢が得た知識と数学的才能によるものだと、長内國俊は指摘している。元禄12年(1699年)、83歳で死去。平成2年(1990年)南島町(現・南伊勢町)はふるさと創生事業の一環として河村瑞賢公園を整備し、瑞賢の銅像を建てた。建長寺には瑞賢の墓がある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。