サマルカンド(, (Samarqand), (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの現大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」()は、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"()で最後まで抵抗した()。『後漢書』などの漢文資料では康国として表れ、昭武九姓の一つに挙げられ、王族は月氏の子孫とされている。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナ、マー・ワラー・アンナフルの中心と呼ばれている。都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。712年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。イスラーム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。751年のタラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。1060年に成立した中国唐の歴史書新唐書西域伝には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建という」という意味の記載がある。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、1210年頃にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配下となり、ムハンマドは首都をウルゲンチからこのサマルカンドへ移した。商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、カイドゥの乱が終結してからはドゥア家のチャガタイ・ウルスの所領として確定した。1333年、イブン・バットゥータは北方のジョチ・ウルスからホラズム、ブハーラーを経由してタルマシリンが治めるチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。14世紀末から15世紀にかけてはティムール朝の首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミール廟やビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシヤブにはシャーヒ・ズィンダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。西域番国志によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点としてユネスコの世界遺産(文化遺産)になっている。ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガル朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、1500年にジョチ・ウルス系のウズベク勢力であるシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンによって征服された。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわちタージーク(タジク人)の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。気候は大陸性で寒暖の差が激しい。夏は乾燥して日中は40度近い酷暑となるが、標高が702mと高い分、タシュケントよりは暑さは和らぎ、朝晩は比較的涼しい。冬は寒く積雪もあるが年によって違いが大きく、1月平均気温の0度前後を大幅に下回る寒さとなることもあり、過去には-25.4℃を記録している。空路陸路サマルカンドには日本語を学習する学生も多く、特にサマルカンド外国語大学に学習者が多い。1986年、吉田拓郎が『サマルカンド・ブルー』というタイトルのアルバムを発売している。次のような高等教育機関がある。などレギスタン広場にはウルグ・ベク・マドラサ、シェル・ドル・マドラサ、ティリャー・コリーモスクマドラサの3つのマドラサが建っている。グーリ・アミール廟はティムール及びその家族の霊廟である。ウルグ・ベク天文台はウルグ・ベクにより1420年代に建設された天文台である。シャーヒ・ズィンダ廟群はサマルカンドの霊廟群である。ビービー・ハーヌム・モスクはサマルカンドのモスクである。アフラシヤブ (サマルカンド)はサマルカンドの北にある遺跡である。
出典:wikipedia
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