ファーティマ( 606年または614年 - 632年8月28日)は、イスラームの開祖ムハンマドの娘で、第4代正統カリフアリーの妻。(ただし、アリーが正統カリフとなったのはファーティマの死後であったことには注意を要する。)ムハンマドの血を引く娘であること、シーア派イマームの祖となったことなどから、シーア派で大変に尊敬されている。また、ムハンマドの寵愛を受けたことから、イスラーム圏における理想の女性の象徴とみなされている。スンナ派の伝承によれば606年、シーア派の伝承によれば614年に、預言者ムハンマドとその最初の妻ハディージャの娘としてメッカで生まれた。ムハンマドの従弟アリー(後の第4代正統カリフ)と結婚し、彼との間に3人の息子と2人の娘をもうけた。このうち、長男ハサン・イブン・アリー、次男フサイン・イブン・アリーの2人の息子はそれぞれシーア派の第2代、第3代イマームとなった。ムハンマドの死後まもなく632年メディナで没した。スンナ派とシーア派とでは彼女の生涯や人物像に関する伝承に違いが見られる。例えばスンナ派の歴史的な伝承によれば、ファーティマはハディージャとムハンマドの末娘として生まれ、若くして病死したとされている。一方シーア派の伝承においては、彼女はムハンマドの唯一の娘であり、末娘という位置付けは夫アリーの正当性を貶めるためにスンナ派が広めたものである、といった説明がなされてきた。またファーティマの生誕年についても、スンナ派とシーア派では伝承に示されている年に違いが見られる。これらの伝承はともに最初は口承によってそれぞれの集団内部で伝えられ、100年以上時代が下った後に文章化されたものであるため、どちらがより正確な事実を反映しているのかを判断するのは難しいとされる。シーア派はアリーあるいはアリーとファーティマの子孫だけがイマームになれるとしたので、イマームを名乗るということは彼女の子孫であると名乗ることとほぼ同意である。また彼女が初代イマームの妻でまた第2代、3代イマームの母親であるということが彼女のシーア派における立場を決定している。特筆すべき例として、10世紀から11世紀にかけてエジプトを中心に興ったシーア派王朝ファーティマ朝の名が彼女の名に由来することが挙げられる。ファーティマ朝の始祖アル=マフディーは、アリーとファーティマの子供の内フサインの系統に属し、その曾孫ジャアファル・サーディクの孫ムハンマド・イブン=イスマーイールの曾孫ないし玄孫を名乗ってイスマーイール派を奉じていた。ムハンマドは常々ハディージャは自分にとって最高の女性だったと述べていた。そのこともあってかファーティマはムハンマドに可愛がられ、ハサンとフサインもムハンマドに可愛がられたとのことである。ムハンマドがファーティマ、アリー、ハサン、フサインを挙げて、彼らこそ自分の家族であると述べたという逸話が存在する。このような由縁により、ファーティマの手と呼ばれる護符の崇拝などが後世への影響として見られる外、今日でもイスラーム圏では「ファーティマ」は女性の名前として好まれており、さまざまな地域の口語アラビア語や土着言語に取り入れられ、ファートマ、ファートゥマ(日本ではファツマと表記されることもある)、ファーテメ(ペルシア語)などさまざまな形に変化している。
出典:wikipedia
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