三河安藤氏(あんどうし)は、日本の氏族。元は三河国の土豪。安藤家重は松平広忠(徳川家康の父)に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死。家重の子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した。基能の嫡男安藤直次は、祖父や父のように志半ばで討ち死にする事もなく、戦乱の世を生き抜いた。直次は家康の側近として活躍し、慶長15年(1610年)には家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられたが、その後も幕政に参与していた。元和3年(1617年)には、遠州掛川城主となり、掛川藩2万8,000石の所領を与えられた。元和5年(1619年)に頼宣が紀伊国に移ると、同国田辺城に3万8,000石の所領を与えられ、以後幕末まで続き、明治維新政府によって独立大名と認められた(紀伊田辺藩)。ちなみに、徳川幕府で老中等の要職を歴任した重信系の安藤氏(磐城平安藤氏)が嫡流と誤認されがちであるが、嫡流は紀伊田辺藩主を務めた安藤氏である。なお直次の弟・安藤重信(安藤基能の次男)も、元和5年(1619年)にはそれまでの領地である下総国小見川2万石から加増移封されて、上野国高崎5万6000石の藩主となっている。徳川幕府の要職を務め、安藤氏嫡流よりも石高が高いために安藤氏の嫡流と誤認されるが、三河安藤氏の分家筋に当たる。小見川藩、高崎藩、備中松山藩、加納藩、磐城平藩と移封を繰り返したが、磐城平藩主の時期に戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加盟したことで有名であり、「磐城平安藤氏」と呼ばれることもある。幕末に公武合体を進めた徳川幕府老中の安藤信正は、磐城平藩の出身である。現在、磐城平安藤氏を略して「平安」を称する団体や施設もある。この例として、磐城平安藤氏や藩士家系の親睦会である「平安会」や、2007年以前のいわき駅北口(磐城平城の方向)の「平安橋」などがある。安藤基能の弟である安藤定次(安藤家重の五男)は、旗本として、相模国鎌倉郡阿久和村に知行をもらい受け、以後代々続いた。詳細は阿久和安藤氏を参照。太線は実子、細線は養子。
出典:wikipedia
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