テュークスベリーの戦い("Battle of Tewkesbury")は、1471年5月4日にグロスターシャーのテュークスベリーで行なわれた戦いである。この戦いで、薔薇戦争は大きな節目を迎える。それはランカスター派の「イングランドの王位奪還」という悲願に、一時的な終末をもたらした。 次のヘンリー・テューダーの王朝誕生という政治クーデターの形でヨーク家・ランカスター家の紛争に決着がつくまで、14年間の平和が訪れる。この戦闘の時点で、精神的に不安定なランカスター家の王ヘンリー6世は、彼のライバルで戦闘では無敗を誇るヨーク家のエドワード4世によって、2回目の退位をさせられたところであった。即位・退位を繰り返すこの状況の変化は、「キングメーカー」と称されるウォリック伯の干渉によるものだった。彼はまずエドワード4世を支援し、後にヘンリー6世を支援した。だが、そのウォリック伯も既に亡く(この3週間前のバーネットの戦いで殺されている)、残ったランカスター派の軍隊は、ヘンリー6世の王妃マーガレットとその息子で17歳になる王太子エドワードによって指揮されていた。もしマーガレットがウォリック伯の敗戦の時にイングランドに戻って来ていて、彼女と同盟を結んでいたベッドフォード公ジャスパー・テューダー(ヘンリー・テューダーの叔父)と組んでバーネットの戦いに参陣していたら、エドワード4世のヨーク派軍に対抗できる可能性も残っていただろう。彼女の唯一の希望はグロスターでセヴァーン川を渡ることであったが、これはグロスターの町と城を治めるヨーク派のリチャード・ボーシャン卿(Sir Richard Beauchamp)に拒否されて失敗した。マーガレットは残っている指揮官の中でも経験豊かなサマセット公に大きく依存した。だが、彼の能力は王朝を支えられるほどのものではなかった。ヨーク派は大砲で優勢だったのだが、サマセット公はそこを読み違え、王弟グロスター公リチャード(後の国王リチャード3世)がサマセット公の側面を充分攻撃できる位置に布陣してしまった。後退するランカスター派の中でパニックが起こり、サマセット公は事態を収拾するために、戦闘の主導権を握れなかった罰を理由に、彼の部将であるウェンロック卿(Sir John Wenlock)を処刑したと言われている。「血まみれの牧草地("Bloody Meadow")」として知られている野原で、恐らくサマセット公の軍隊の半分ぐらいが虐殺された。一部が近くのテュークスベリー修道院に逃げ込んだが、そこにも敵の追っ手が差し向けられたと言われる。死傷者の1人はエドワード王太子だった(戦闘中の死亡であるか戦闘後の死亡であるかは明らかではない)。エドワードは今日に至るまで、イングランド史上「戦死した唯一の王太子」である。マーガレット王妃と義理の娘アン・ネヴィルは「最も高貴な捕虜」とされ、残ったサマセット公を含む全ての戦闘指揮官はその後間もなく手短に処刑された。ヘンリー6世は既にロンドン塔に収監されており、数日後にそこで殺されている。
出典:wikipedia
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