マイヤー・ランスキー(, 1902年7月4日 - 1983年1月15日)はユダヤ系ロシア人のギャング。本名はマイェル・スホフラニスキ()。ルチアーノらマフィアの財政顧問。当時ロシア帝国領だったフロドナ(現在のベラルーシ、グロドノ)でポーランド系ユダヤ人の両親の間に生まれる。1911年、一家で渡米し、ニューヨークのブルックリンのブラウンズヴィル、次いでマンハッタンのロウアー・イースト・サイドのグランド通り周辺に住んだ。1916年頃、不良グループのボスだったラッキー・ルチアーノに用心棒代を払うのを拒否して喧嘩し、以後友達となった。父に薦められ機械工の見習いとなったが2年で辞め、アイルランド移民の少年仲間とクラップゲーム(サイコロ賭博)をやっていた。1921年頃、ゴールド・ダスト・ツインズというユダヤ人ギャング団に入り、"バグジー"・シーゲルと知り合った。車を使った窃盗団を組織し、近所の商店や金貸し屋をゆすっては商品を強奪して転売し、他のストリートギャングに恐れられた(バグズ&メイヤーギャング)。ウイリアムズバーグ・ブリッジの下にあった倉庫に盗難車を蓄え ギャングに貸し出した。1920年代初期は、シーゲルと共に密輸ギャングのルイス・"ダッチ"・ゴールドバーグなどの元で酒の密輸トラックの武装ガードマンを務め、ニューヨークからシカゴまで酒を運んでいた。やがて他の密輸トラックを襲って酒を横取りし、非合法の酒取引所で転売して稼いだ。彼らを雇っていたフランク・コステロの紹介でアーノルド・ロススタインに認められ、自ら密輸ビジネスに参入した。ルチアーノらと酒輸送ネットワークの一員になり、規模を拡大した。ワキシー・ゴードンらとロススタイン配下のスコットランドの蒸留酒業者との間の配送ルートを確立した。偽造スタンプ工場の設立からラベル印刷、輸送トラック・貨物船の購入まで密輸稼業を本格化させ、売りさばいて得た莫大な収入を、地下賭博場の設立や政治家・警官の買収に当てた。1920年代中頃、サム・ブロンフマン一味のカナダ産酒を海上ルートで密輸入し、東海岸の密輸グループ「ビッグセブン」の一角を占めた。1928年ロススタインが死ぬとその賭博興行の利権を受け継いだ。ルイス・"レプケ"・バカルター、エイブ・レルズと知り合うと、麻薬ビジネスにも手を染めた(賭博に専念するため程なく離脱したとされる)。1930年のカステランマレーゼ戦争ではサルヴァトーレ・マランツァーノに顔を知られていない無名のユダヤ系殺し屋を集めてルチアーノの対「口髭ピート」抗争を手助けした。1931年、ルチアーノがニューヨーク・マフィアを制すると、ルイス・バカルターやシーゲルと共にマーダー・インクの設立に関わった(一説にランスキーの発案ともいう)。アイルランド系、ユダヤ系、イタリア系ギャングの横の連携に努め、1934年にウォルドルフ=アストリアでジョニー・トリオらと全米犯罪シンジケートを立ち上げた。故ロススタインが深く関わっていた賭博リゾート、サラトガスプリングスでコステロらと共に違法賭博のノウハウを学び、1933年の「禁酒法」廃止と前後してニューヨークの外に進出した。ケンタッキー、フロリダ、ニューオリンズ、西海岸などに次々とヤミ賭博の拠点を作った。カーペットジョイント(高級賭博クラブ)運営をベースに、競馬やドッグレースも手掛け、私設馬券場、競馬通信社を支配した。シーゲルを西部に派遣しロサンジェルスに拠点を作り、ネバダ州の賭博合法化によりラスベガスにも進出を開始した。1938年、当局の手が及ばないキューバに目をつけ、バティスタ政権に賄賂(一説に300万ドル)を送って賭博リゾートの利権を独占した。トラフィカンテJrやカルロス・マルセロら全米のギャング仲間と儲けを分かち合った。儲けた金はスイスのダミー会社に送金、資金洗浄した(マネーロンダリング)。1938年、フランク・コステロとランスキーは25万ドルの秘密基金を作り、同年ニューヨーク州知事に出馬したトーマス・デューイの選挙資金を負担したと言われる。彼は選挙資金としてその金を受け入れ、その年の選挙には敗れたが、それから二度と彼らの脅威にならなかったという。1944年のデューイの大統領選挙出馬でも資金援助したとされる。第二次大戦中、ルチアーノ釈放と国内のドイツスパイ掃討作戦を通じてOSS(CIAの前身)とのコネを築いた。またルーズベルト大統領とキューバのバティスタ大統領との会談をセッティングしたと言われる。のちマイアミやキューバ、バハマなどカリビアン諸国に投資会社を多数設立してヤミ資金の流れをかく乱し、トーマス・デューイなど著名な政界OBを会社の重役に据えて合法偽装した。フラミンゴの建設プロジェクトにシーゲルを任命したが、戦時中の資機材の高騰や建設の遅延、シーゲルの気まぐれな設計変更等で建設は難航した。シーゲル自身の放蕩などで数百万ドルの資金を溶かしたとされ、シーゲルは責任を取らされて1947年に暗殺されたが、シーゲルにプロジェクトを委ねたランスキーにも制裁があったと噂された。戦後状況が好転し、人気リゾートとして成功した1950年代には、フラミンゴやサンズなどホテル賭博の上がりを大胆な手法で脱税・ピンハネした。1951年のキーファーバー委員会でコステロらマフィアの大物が次々と狙われる中、「小物」と見なされ、1952年にサラトガの違法賭博で3ヶ月の禁固刑を受けた。同年マイアミ北部のハレンダール市に移住した。1952年、キューバのバティスタが軍事クーデターを仕掛けた際、クーデターの準備に資金協力し、バティスタ政権の賭博政策のアドバイザーとなった。1950年代後半キューバに独自の拠点を作ろうとしたニューヨークマフィアのアナスタシア一家のボス、アルバート・アナスタシアと衝突するとコステロ一家のヴィト・ジェノヴェーゼと結託した。1959年1月、カストロの革命政権が誕生するとキューバに莫大な資産を残してマイアミに逃げ帰った。虎の子のホテルリヴィエラは没収され、一説に1600万ドルを損したという。帰米してすぐFBIと接触し、カストロ打倒その他状況の打開を訴えた。1959年2月、シンジケート仲間のアブナー・ツヴィルマンが自宅で首つり死体で発見され、警察は自殺と結論付けたが、FBIはランスキーが首謀したと信じた。同年9月、ジェノヴェーゼ一家幹部アンソニー・カルファノが暗殺されたが、収監中のジェノベーゼと殺害を共謀し、そのフロリダのタンパ市のカジノを奪ったとの説がある。1950年代よりバハマ諸島に進出を開始し、ウォール街の投資家ウォレス・グローブスやカナダ人ルー・チェスラーらを動かしてバハマ支配政党PLPからカジノの独占権を得ると、組織的なキックバックや集団ローン手法でカジノの上がりを掠め取り、これをニューヨークマフィア他全米ギャングに分配した。1960年代後半、キューバの革命暴動を予測できなかった反省から政治腐敗化したバハマの与党PLPを、スキャンダル汚職の暴露を通じて政権から追い落とし、賭博ライセンスの政治的保証と引き換えに野党のピンデリングの政権樹立に協力した。禁酒法時代のランスキーの協力者はニューヨーク地元のユダヤ人脈に限られ、そのほとんどは街の愚連隊上がりの便利屋風情だった。全米に進出した1930年代後半より賭博興行のノウハウを持ったキャリアを増やし、プロジェクトごとに少数精鋭の賭博チームを率いたと推定されるが、具体的なオペレーションは闇に包まれている。ランスキーの長年の仲間では、ラスヴェガスのフラミンゴホテル建設でランスキーの手足となって動いたモー・セドウェイ、イスラエルに帰化を果たし、ランスキーの帰化に尽力した"ドク"・スタチャーなどがいた。1960年代、ギャンブル、ホテル・ゴルフコースへの投資などで3億ドルを儲けたと言われる。1960年代からFBIのターゲットとなっていたが、1970年に脱税容疑を受けてイスラエルに逃亡した。2年後、帰化申請が却下され、国外追放されると、アメリカ政府は訪問先の中南米諸国にランスキーを入国させないように圧力をかけた。アメリカに強制送還されたが保釈された。1976年に病気と老齢を理由に告訴は取り下げられ、FBIはランスキーの身辺調査を中止した。マイアミの閑静な隠れ家で質素に暮らし、1983年1月15日、肺癌で死去した。3億ドル以上の資産を残したと言われたが、本人名義の資産は5万7千ドル(鑑定額)で、彼の死後に遺族が発見したのは手紙類、200ページの手書き人生メモ、裁判書類、詩集コピーなどで、スイスバンク口座も札束の塊も発見されなかった。「資産を持たず資産を持った部下を持った」などと言われた。妻テディの死後、孫たちの間で「失われた資産」探しが始まったが、いまだに見つかっていない。ヴィンセント・テレサ(ニューイングランド一家所属)によれば、ランスキーはラスベガス等のギャンブルで全米のコーサ・ノストラの組織を儲けさせているが、あくまでコーサ・ノストラの代理人としてのそれであり、代理人として正直に振舞っている上では役に立つが、そうでなければいつでも消される立場にあるとしている。またアンソニー・サレルノ(ジェノヴェーゼ一家)は、ランスキーの死に際し、「ジェノヴェーゼ一家のワークスタッフに過ぎない。何をやるにもヴィンセント・アロ(ジェノヴェーゼ一家)を通さなければならず、独立した権力もなかった」とFBIに語った。これらマフィアの内部証言者2人とも、世間に定着した「暗黒街の大物」「闇社会の帝王」のイメージを否定した。FBIの盗聴記録から、「生活の必要は自分から多くのものを奪った」、「戦争で大金持ちになった人々がいるが、彼らは職を持つべきではない」などと、富豪と思えないような発言(愚痴)を繰り返していたことが判明した。息子の手術代を払えずヴィンセント・アロに用立ててもらったエピソードも後になって露見した。晩年に滞在したイスラエルでのテレビインタビューではマスコミで言われている「3億ドルの資産」を真っ向から否定した。彼の質素な生活が、謙虚なライフスタイルの反映でも富豪のイメージを隠す偽装でもなく、実際の財政状態を表していたのではないかとの指摘もある。その生涯は『モブスターズ/青春の群像』(1991年)、『ランスキー』(1999年)などの映画で取り上げられている。また、『ゴッドファーザーPARTII』に登場するユダヤ系ギャング・ハイマン・ロスはランスキーがモデルである。
出典:wikipedia
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