ジョー・マッセリアことジュゼッペ・マッセリア(, 1879年 - 1931年4月15日)、通称ジョー・ザ・ボス()は、イタリアおよびアメリカ20世紀初期のコーサ・ノストラのボスである。シチリア島パレルモ近郊出身。1903年殺人容疑を逃れて渡米、ニューヨーク定住。ロウアー・イースト・サイドに定住した。1913年、強盗で捕まり1914年控訴したが収監された。1916年に出所すると、当時カモッラとの戦争で消耗していたモレロ一家の雇われ殺し屋として頭角を現した。1920年、モレロ一家のリーダー、ジュゼッペ・モレロが出所すると、ライバルの "トト"・ダキーラは、モレロやモレロのフォロワーに、死を宣告した。モレロは地下に潜伏し、ダキーラは各組織にスパイを送り込んだ。同じ頃、禁酒法時代が幕を開け、マッセリアは酒の密輸を始めた。カーブ・エクスチェンジ(非合法酒交換所)を支配下に置いて密輸商売を広げ、ウンベルト・ヴァレンティなどライバルギャングと密輸の縄張りをめぐって争った。ダキーラはヴァレンティに対しても死の宣告を出していたが、これを撤回してマッセリアを倒すよう命じた。1922年8月、マッセリアはヴァレンティに和解を申し出てレストランに誘いこみ、これを銃殺した。避難先のシチリアから戻ったモレロをアドバイザーに据え、モレローテラノヴァ組織のボスとなった。ダキーラ勢力は以後衰えた。1920年代を通じ酒の密売・上納金収入で財産を築いた。1928年にダキーラを殺害し、傀儡のアル・ミネオを置いてその縄張りを継がせ、同年殺されたイェールの酒密輸と賭博利権はアンソニー・カルファノに継がせテリトリーを拡大した。またブロードウェー・モブと呼ばれたラッキー・ルチアーノら若手の密輸ギャングを配下に取り込んだ。サルヴァトーレ・マランツァーノのカステラマレ勢力がニューヨークで急拡大するとマランツァーノ陣営に高額な上納金を課すと共に、シカゴやデトロイトなどニューヨーク周辺に分散していたカステラマレ勢力を取り込もうとした。1930年2月、同盟を結んでいたガエタノ・レイナの死をきっかけに戦争状態となった。マランツァーノ派の重鎮ヴィト・ボンヴェントレを殺害したが、反対に自陣のジュゼッペ・モレロを殺された。更にレイナの後釜に据えた傀儡のジョー・ピンゾロが暗殺され、形勢が不利になるとラッキー・ルチアーノやテラノヴァら部下・同盟者がひそかにマランツァーノに寝返った。1930年11月マッセリア軍団の中核だったアル・ミネオが暗殺され、勢力は一気に弱体化した。1931年2月、モレロギャングの武闘派ジョー・カタニアが暗殺された。マランツァーノと密かに通じたルチアーノの首謀により、マッセリアは、1931年4月、コニーアイランドのイタリアンレストランNuova Villa Tammaroで暗殺された。シチリア島パレルモで生まれた(トラパニ出身という資料もある)。1903年、シチリアでの殺人容疑から逃亡する為にアメリカに移民し、ニューヨーク市マンハッタン区ローワー・イースト・サイドのモレロ・ギャング団の殺し屋となった。1916年、ニック・モレロが死亡すると、モレロ・ギャングはいくつかの派閥に分かれて内紛状態となり、マッセリアはそのうちの一つの派閥のリーダーとして頭角を現した。ブルックリンのマフィアのリーダーであったサルヴァトーレ・"トト"・ダキーラは、1921年ジュゼッペ・モレロが出所すると、モレロギャングの復活を阻止すべく彼のフォロワー含めて死の宣告を出した。ダキーラはマフィアのファミリー間の仲を取り持つ相談役と考えられていたが、モレロが往時の勢いを取り戻すことを恐れ、各組織にスパイを送り込んだ。モレロはシチリアに逃亡したため、マッセリアが攻撃の矢面に立った。後の研究者たちは、ダキーラを最初の「」、後にマッセリアが狙った地位である「ボスの中のボス」とした。ダキーラは死の宣告を出していた元部下のウンベルト・ヴァレンティと和解し、マッセリアを狙わせた。1922年、マッセリアは自宅前で、ウンベルト・ヴァレンティの待ち伏せに遭った。ヴァレンティはマッセリアが2人のボディガードを連れて通りを歩いているのを発見し、彼らに向かって銃を発砲した。この襲撃によって、ボディガードは死亡したが、マッセリアは無傷であった。マッセリアは素早く近くのヘイネイ婦人帽子店へ身を隠した。ヴァレンティは空になった銃を再装填しながら、マッセリアを追って店内にて銃撃したが、マッセリアはうまく逃げ回り、まもなくパトカーのサイレンが聞こえてくると、ヴァレンティは諦めてその場から退散した。危うく難を逃れたマッセリアは彼の帽子に穴が数個空いただけで助かった。この事件によって、マッセリアは「弾丸をかわすことが出来る男」として、マフィア内での名声が高まった。襲撃事件の翌月、マッセリアはヴァレンティとの和平の準備に取り掛かった。ボスの座から引退する用意があるとほのめかした。1922年8月11日会談当日、ヴァレンティらは取巻き3名を引き連れて、会談場所のレストランに到着、マッセリアの配下3人が彼らを出迎えた。ヴァレンティと取巻きらはしばらく愛想よく会話していたが、ヴァレンティらは嵌められているのにしばらく気がつかなかった。ようやく嵌められた事に気づいたヴァレンティは、銃を取りに行き、マッセリアらと銃撃戦を始めた。そして、ヴァレンティの部下2名が倒されると、分が悪いと悟ったヴァレンティはその場から逃亡した。マッセリア側も彼をし止めようと後を追いかけたが、途中で街路掃除人や8歳の少女を射殺。ヴァレンティは通りがかったタクシーのサイドステップに乗って応戦し始めた。だが、ヴァレンティは追跡者の1人により撃たれ、路上に転がり落ちた。それが彼の最後だったモレロ・ファミリーの新しいボスはジョー・マッセリアとなった。そして逃亡先のシチリアから戻ったジュゼッペ(ピーター)・モレロがアドバイザーとなった(この頃ジュゼッペはピーターに名前を変えた)。ピーター・モレロは相談役の地位は警察からの不当な監視から逃れたいという願望の表れだった。ボスになったマッセリアの下での相談役の地位は彼に安泰をもたらしていた。1928年7月、フランキー・イェールが死んだ。彼の死はニューヨーク・マフィアの全体的なリーダーになるというマッセリアの野心の促進剤であったように見える。同年10月、ブルックリン区を支配していたマフィアボス、サルヴァトーレ・"トト"・ダキーラがピーター・モレロらによって殺された。ダキーラはかかり付けの医院からの帰宅途中、3人の男に通りで声をかけられた。会話しているうちに次第に議論が白熱化し、男のうちの1人が銃を抜いて、ダキーラを射殺した。以前から、ダキーラとモレロの関係が悪化しつつあることは知られていた。ニューヨーク・マフィア内でのダキーラの相談役としての地位の上昇が、モレロには我慢できなかった。この件が元でモレロと彼のファミリーの運命も下がり始めていった。マッセリアは、ダキーラのファミリーの後釜に傀儡のアル・ミネオと彼の用心棒のスティーブ・フェリーニョを置いた。1929年6月、チロ・テラノヴァは、フランキー・マーロウ殺害との関連について質問された。マーロウは殺害された日の夜、テラノヴァと共に食事をしていた。同胞のシチリア人として、マーロウは新しく暗黒街のボスとなったジョー・マッセリアに敬意を表するか、あるいはマッセリアの要求に応じようとしなかった。フィリップ・マーロウはニューヨーク暗黒街の重鎮であったが、状況の変化に気づいていなかった。結果、マーロウはモレロらの力を見誤り、悲劇的な最期を遂げた。マーロウの体の銃創は、アル・カポネのシカゴ・アウトフィットらが使っているマシンガンから発射された弾丸であった。それはフランキー・イェールや聖バレンタインデーの虐殺で使用されたものと一致していた。使用された武器は後に聖バレンタインデーの虐殺に参加していたフレッド・"キラー"・バークを逮捕した折、当局の手に渡ることになった。次に、マッセリアはイェールの組織の乗っ取りに動いた。そしてアンソニー・カルファノをイェール・ファミリーのボスにした。カルファノらはイェールの運営していたギャンブルと密造酒の販売を支配した。また、港湾での恐喝行為もしていたが、港湾区域はダキーラ・ファミリーのボス、アル・ミネオが牛耳っていた。ジョー・マッセリアは今や"ジョー・ザ・ボス”としてニューヨーク最大のマフィア・ファミリーを率いるボスとなった。他のシチリア系ギャング達は、それまで彼の帝国の一部には組み込まれていなかったが、氷密輸業者でブロンクスのマフィアボスのガエタノ・レイナは、ダキーラとマーロウに起こった事に注意し、彼に敬意を払い始めた。マッセリアはニューヨーク暗黒街を全て掌握した唯一の存在ではなかった。労働組合を暴力で支配したルイス・バカルターやグラフそれとワキシー・ゴードンやオウニー・マドゥンのような密造酒業者達らは政治的コネを作り、莫大な富を得て、強力なギャング団を組織していた。そして他に急速に勢力を拡大していたダッチ・シュルツやブロードウェイ・ギャングはマッセリアらの存在を認めようともしなかった。当時のマフィア達のほとんどは同胞のイタリア人移民からの搾取に集中していた。マッセリアはブロードウェイ・ギャングの取り込みを計り、リーダー格のチャールズ・ルチアーノに目をつけた。ルチアーノはギャング団で唯一のシチリア出身者だった。他のメンバー、フランク・コステロ、アルバート・アナスタシアはカラブリア出身、ジョー・アドニス、ヴィト・ジェノヴェーゼはナポリ生まれ、マイヤー・ランスキーとバグジー・シーゲルはユダヤ人であった。ルチアーノは秘密結社の儀式と慣習に対し、また伝統的なマフィアに対して不満を抱いているとわかった。ルチアーノにとってそれは我慢出来ないものであった。しかし、彼の出生地は後に彼に幸運をもたらすものになった。当時、民族的に排他的な組織であったマフィア内で、シチリア人でなかった彼の仲間達と共に彼の勢力は後々拡大していくこととなった。マッセリアは、次の標的にカステラマレ一派を選んだ。カステラマレのリーダー、コラ・シーロは見た目からもリーダーとも思われず、背後に彼を操る黒幕の存在がいることがわかった。彼は、マッセリアに1万ドルを支払い、そしてどこかへ消えた。実際、彼のその後の行方は途絶えた。コラ・シーロが行方不明となったあと、マッセリアは他のファミリーらと同じように、後釜に新しい候補を据えようと試みた。マッセリアはコラ・シーロを継いだジョー・パリッノと密約を結んだが、彼はカステラマレ派から裏切り者のレッテルを張られ、レストランで射殺された。サルヴァトーレ・マランツァーノが新しいリーダーとなった。マランツァーノはシチリアのドン・ヴィト・カッショ・フェロがアメリカ・マフィアでの影響力を得る為に、1925年にシチリアから送り込まれた。マッセリアはマランツァーノに対し、暗殺命令を出した。こうしてカステランマレーゼ戦争と呼ばれる抗争が始まりを告げた。1931年4月15日、コニーアイランドにあるレストラン「ヌォヴァ・ヴィラ・タマッロ」にてマッセリアは暗殺された。裏社会の伝説によれば、死の直前、マッセリアはラッキー・ルチアーノと食事をとったあと、トランプをしている時に、ルチアーノが化粧室に行くと席を立った。そしてマッセリアが1人席に残っている時に、ベンジャミン・シーゲル、ヴィト・ジェノヴェーゼ、そしてジョー・アドニスらがレストランに進入し、4人の殺し屋は20発ほどの銃弾をマッセリアに撃ちこんだ。マッセリアは死んだとき、トランプのスペードのエースを握っていたという。そのため、スペードのエースはマフィアの間で不吉な数字だと呼ばれるようになった。こうして、ジョー・ザ・ボスと呼ばれた男はあっけなく死んだ。言い伝えでは、ルチアーノがマッセリアをレストランの食事に誘い、トイレに行っている間にベンジャミン・シーゲル、アルバート・アナスタシア、ヴィト・ジェノヴェーゼ、ジョー・アドニスの4人が侵入してマッセリアを射殺したとされるが、この言い伝えは当時の報道と諸々の点で合わず、その信憑性が長年議論されてきた。マッセリアが暗殺された時、一緒にいたはずの用心棒が消えており、ルチアーノは後日警察に尋問されたが、ルチアーノがその場にいたかどうかは不明な上、目撃者はレストランに入った殺し屋は2人だけだったと証言した。当時の新聞は、目撃証言に従い2人の殺し屋に殺されたと報じた。目撃証言と警察のレポートでは、その日午後3時頃、マッセリアは防弾仕様の車で仲間3人とレストランに到着した。レストランオーナーであるスカルパトの義母アンナ・タマロによれば、4人は奥の部屋に入り、すぐコーヒーを注文してトランプゲームを始めた。トランプの間、魚を焼いてくれという注文があったためアンナは魚を買いに出かけた。1台の車がレストラン近くに止まり、洒落た身なりの2人が降りてレストランに入っていった。すぐに銃声が聞こえ、20発程度の発砲音だったが、その2人がレストランから出てきて、慌てる様子もなく同じ車に乗り込み去った。レストランの近くで2丁の拳銃(32口径と38口径)が発見され、マッセリアを襲った銃弾と一致した。背中に3発、目の上に1発。最初に背中を撃たれ、振り返って相手に近寄ろうとして正面から最後の数発を浴びたと警察は推定した。検視の結果マッセリアは殺された時ほとんど食べ物をとっていなかったことが分かった。マッセリアの仲間3人全員のオーバーコートと帽子がレストランに残っており、その後の調べですべてブルックリンで買われたものと判明した。息子のジェームス・マッセリアは警察の尋問に対し、マッセリアと共同で賭博会社をやっていたリトルオーギー・ピサノの名前を挙げた。事件の時外を散歩していたと証言していたレストランオーナーのスカルパトは、暗殺前にレストラン近くに偶然居合わせた知人の証言により、暗殺を事前に知っていたことが判明した(「ここで何をしている?早く帰れ。ここにいたことは誰にも話すな」と告げられた)。後年、政府密告者のジョセフ・ヴァラキは、ルチアーノがレストランに誘ったとした上で、同席者はヴィト・ジェノヴェーゼ、フランク・リボーシ、ジョー・ストラーチの3人としたが、多くの疑問が提示された(取り巻きが全員非シチリア人というのはありえない、など)。スカルパトは、1932年9月12日、車から袋詰めの遺体で発見された。
出典:wikipedia
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