大阪府立八尾高等学校(おおさかふりつ やおこうとうがっこう、英称:)は、大阪府八尾市高町にある公立高等学校。全日制普通科を設置する。1895年に大阪府第三尋常中学校として創立。教育目標は「文武両道の骨太の人材育成」。大阪教育大学と高大連携を行っていて、2・3年生の希望者は大阪教育大学天王寺キャンパスで週1回大学生と一緒に講義を受講できる。他にも「出前講義」を行うなどしている。また環境教育と人権教育にも注力している。学校の敷地面積は、大阪府立鳳高等学校に次いで大阪府立高校で2番目に広いとされている。1894年に中学校令が改正され、それまで1道府県に1ヶ所しか設置できなかった中学校の複数設置が可能となった。これを受けた大阪府は郡部にも中学校を増設する案を立て、若江郡八尾村のほか、堺市・南郡岸和田町・住吉郡平野郷町・東成郡天王寺村などが中学校誘致に動いた。大阪府は当初は1中学校のみの増設を計画していたが、紆余曲折を経て郡部に3中学校の増設が決まった。1895年2月21日の大阪府告示により八尾村にも中学校が設置されることになり、大阪府第三尋常中学校として1895年4月に開校した。なお、大阪府第二尋常中学校(現在の大阪府立三国丘高等学校)・大阪府第四尋常中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)が同時に開校している。当初は若江郡八尾村大字八尾の大信寺対面所(現在の八尾市本町4丁目)を仮校舎として授業をおこなっていたが、1897年に中河内郡八尾村大字大信寺新田に校舎が完成し移転。1900年には長瀬川左岸の中河内郡龍華村大字安中に運動場が完成した。この長瀬川左岸の校地が漸次拡張され、のちの校舎新築移転を期に現所在地となる。大阪府は中学校令施行規則に基づき、大阪府立のすべての中学校・高等女学校について、従来の学校創立順の番号による校名から学校所在地の地名に基づく校名への名称変更の申請を文部科学省に出し、1901年3月に文部大臣から認可を受けた。これに伴い1901年4月1日より大阪府八尾中学校へ改称した。しかし改称直後の1901年4月8日に文部省令第11条が出された。中学校・高等女学校などの名称について、「○○県立・○○郡立」などの形で設置者の名称を冠することが義務づけられ、この命名規則に沿っていない既存校については6ヶ月以内に変更することを指示したものであった。これに伴い、すべての「大阪府○○中学校/高等女学校」は「大阪府立○○中学校/高等女学校」へと一斉に再変更されることになった。大阪府八尾中学校についても、改称から2ヶ月後の1901年6月3日付で大阪府立八尾中学校へと再改称を実施している。1934年に長瀬川左岸の校地に鉄筋コンクリート造の新校舎(昭和校舎)が完成し移転。この校舎は太平洋戦争中の一時期、空襲の目標になることを避けるため迷彩が施されたことがある。1994年に現校舎に建て替えられている。太平洋戦争中の1944年から1945年にかけ、校庭に兵舎が建ったり、生徒が近隣の工場に勤労動員されるなどした。1948年の学制改革により、大阪府立八尾高等学校となった。大阪府立山本高等学校(旧制八尾高等女学校)と生徒・職員を交流して男女共学となった。しかしその直後、山本高等学校の校舎は新制中学校に転用されることになり、山本高等学校は八尾高等学校内に移転した。また1948年5月より9月にかけて、久宝寺村立中学校(現在の八尾市立久宝寺中学校)が八尾高等学校の校舎の一部を借用し、一時3校が同居する状態となった。山本高等学校は1950年に元の校舎に復帰している。硬式野球部は春夏あわせ10回の甲子園大会へ出場している。1952年夏には、大阪大会初戦から甲子園の準決勝まで、エース・木村保がすべて完封。失点は決勝の芦屋高校戦のみという快投で準優勝。甲子園出場は1959年夏が最後。こののち私立高校の台頭が著しく甲子園こそ遠ざかったが、公立高校の中で健闘し、夏の大阪大会で牛島和彦・香川伸行時代の浪商(現・大体大浪商)を破ったこともあった。中村邦晴 住友商事社長
出典:wikipedia
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