サンダンス・キッド(The Sundance Kid、 1867年 - 1908年11月7日)は、アメリカ西部開拓時代後期のアウトロー、強盗。本名はハリー・アロンゾ・ロングボー(Harry Alonzo Longabaugh)。愛称は彼が1887年に馬泥棒の罪で収監された刑務所のあるワイオミング州サンダンスに由来している。ブッチ・キャシディとともに強盗団「ワイルドバンチ」を結成し、アメリカ合衆国史上最も長い期間にわたる一連の数々の銀行強盗や列車強盗を働いた。ワイルドバンチの前身「壁の穴ギャング()」の残党ともいわれるが、通説に留まり定かではない。追いつめられてブッチと共にボリビアまで逃走するも、隠れ家を騎兵に包囲され、銃撃戦の末に死亡したとされる。死から100年後の2008年、彼とブッチが死亡したボリビアの村、サンビセンテに当時の手配書や遺骨などを展示する記念館が開館した。1969年の西部劇映画『明日に向って撃て!』の題材にもなっている。ペンシルベニア州モントクレア(Mont Clare)の人であるジョサイア・ロングボーとアニー・G・プレイスの5子(エルウッド(Ellwood)、サマナ(Samanna)、エマ(Emma)およびハーヴィー(Harvey))末子として生まれた。ロングボーは、大部分イングランドおよびドイツ系であり、一部ウエールズ系でもあった。15歳でいとこのジョージと幌馬車で西に旅行した。1887年、ロングボーはワイオミング州サンダンスの牧場から銃、馬および鞍を盗んだ。逃げ去ろうとして彼は当局に捕えられ、裁判官ウィリアム・L・マギニス(William L. Maginnis)によって在監18ヶ月の判決を言い渡された。在監中に「サンダンス・キッド」のあだ名を与えられ、以後これを名乗った。出所後、彼は牧場労働者の仕事に戻り、1891年、25歳で、彼はカナダのアルバータのバー・ユー・レンチ(Bar U Ranch)で働いたが、それは当時最大の商業的牧場(レンチ、ranch)のひとつであった。ロングボーは、1892年に列車強盗、1897年に他の男性5人と共謀した銀行強盗の容疑をかけられた。彼は、この頃からブッチ・キャシディを始めとするワイルド・バンチと関係するようになった。ロングボーは、、しばしば「銃使い(gunfighter)」と言われていたが、彼とパーカーが殺されたと言われる、のちのボリビアでの銃撃戦より前には、だれをも殺さなかったことは知られていない。彼は、ギャングの、「キッド」(Kid)の称号を与えられたもうひとりの無法な構成員である「キッド・カリー」(Kid Curry。本名ハーヴェイ・ローガン(Harvey Logan))よりもよく知られるようになったが、ローガンはギャングとともにいるあいだ多くのひとを殺した。多くの記事が「ザ・キッド」(the Kid)に言及したから、ことによると「サンダンス・キッド」は「キッド・カリー」と間違われたかもしれない。ロングボーは実際に、ジョージ・カリー(George Curry)が率いるギャングをワイオミング州の「壁の穴」の隠れ家まであとを追う法執行者らとの撃ち合いに参加したし、その撃ち合いで法執行者2人を負傷させたと考えられた。ただし、それを例外として、実証された撃ち合いへの彼の巻き込まれは知られていない。ロングボーとローガンは、モンタナ州レッド・ロッジ(Red Lodge)で銀行強盗をはたらくまえは、隠れ家としてワイオミング州コディ(Cody)の現オールド・トレイル・タウン(Old Trail Town)で幌馬車を隠れ家に利用した。パーカー、ロングボーおよびその他のならず者たちは、ワイオミング州北中央部の「壁の穴」からオールド・トレイル・タウンまで走る、別の幌馬車で会った。その幌馬車は1883年、アレクサンダー・ゲント(Alexander Ghent)によって製作された。歴史的には、このギャングは、一時は、脅迫と交渉におもに依存して、強盗のあいだ暴力の欠如で最もよく知られた。が、それにもかかわらず、もし捕らわれれば彼らは絞首に直面したであろう。しかしながら、ギャングのそういう描写は、けっして正確ではなく、大部分は彼らを「非暴力的」に描くハリウッドの描写の結果である。実際には、ローガンひとりによって殺された法執行者5人を含む、幾人かの人が、ギャングの構成員によって殺された。「指名手配 生死に関わらず」の貼り紙が、捕獲または死亡につながる情報について30,000ドルもの報奨金をかけられて、国じゅうに貼られた。彼らはワイオミング州ケイシー(Kaycee)に近くに位置する「壁の穴」に潜伏しはじめた。それは周囲区域を全方向、見わたす高台に位置したので、捕えられる恐れのほとんどないまま、彼らはそこから攻撃しかつ退却することができた。しかしながら、チャーリー・シリンゴ(Charlie Siringo)が率いるピンカートン(Pinkerton)の探偵たちは、数年間にわたって、このギャングを追い回した。パーカーとロングボーは明らかに、事態が少し静まるままにすることを欲しかつ新たな強盗場所を探しに、1901年2月20日、合衆国を発った。ロングボーは、「妻」エッタ・プレース(Etta Place)およびパーカーとともに英国船ハーミニアス(Herminius)でアルゼンチンのブエノス・アイレスにむけて航海した。ロングボーの死亡に関する諸事実は、はっきりとは知られていない。1908年11月3日、ボリビア南部のサン・ヴィンチェンテ(San Vicente)という小さい採鉱町の近くで、「Aramayo Franke y Cia」銀鉱山の急使が、会社の賃金総額15,000ボリビア・ペソ相当をロバで運搬中に、面を付けたアメリカン人2人の山賊に襲われ、強盗された。山賊たちはそれからサン・ヴィンチェンテに進み、そこでボニファシオ・カサソラ(Bonifacio Casasola)という地元の鉱山労働者が所有する小さな下宿屋に下宿した。カサソラが外国人の下宿人2人を疑うようになったとき(彼らが所有していたロバはアラモヨ鉱山からのもので、その採鉱会社の商標を帯びていた)、カサソラは家を出て、近くの電信吏に通知し、電信吏は近くに駐屯する小さなボリビア陸軍騎兵部隊(アバロア連隊)に通報した。部隊は、ジャスタ・コンチャ(Justa Concha)大尉が率いる兵3人をサン・ヴィンチェンテに急派し、そこで彼らは地元当局に通報した。11月6日晩、下宿屋は、アボロア連隊からの兵3人とともに、地元市長とその職員たちから成る小集団に取り巻かれた。兵2人が、山賊2人が留まっている家屋に近づいたとき、山賊たちが射撃を始め、兵のうち1人を殺し、もう1人を負傷させた。それから拳銃での撃ち合いが続いた。午前2時ころ、発砲の休止中に警官隊と兵たちは家屋のなかから1人の男性が悲鳴をあげるのを聞いた。まもなく、1発の銃声が家屋のなかから聞え、そののち悲鳴がやんだ。複数分ののち、もう1発の銃声が聞えた。地元の人々が場所の周囲を包囲していたため膠着状態が翌朝まで続いたが、そのとき、彼らは中にはいると、両腕、両脚に多数の銃創を負った遺体2体を見つけた。男らのうち1人は前額に銃傷があったし、残り1人はこめかみに弾痕があった。地元警察報告の推理によれば、遺体の位置から判断して、1人の山賊が、一時的な共犯者を安楽死させるために撃って致命傷を負わせ、その直後、最後の弾丸で自殺した。トゥピサ(Tupiza)警察によるこののち続く捜査において、山賊たちはアラモヨ総賃金強盗をはたらいた男たちであると身元が特定されたが、しかしボリビア当局は彼らの本当の名前を知らなかったし、彼らの身元を明確に特定することはできなかった。これらの遺体は小さなサン・ヴィンチェンテの共同墓地に埋葬され、そこでは彼らはグスタフ・ジマー(Gustav Zimmer)というドイツ人鉱山労働者の近くに埋葬された。印が付けられていない彼らの墓を見つけようという試みがなされてきたが、特に1991年のアメリカの法医学人類学者クライド・スノー(Clyde Snow)による試みがなされて、パーカーとロングボーの生存する親戚と合致するDNAを持つ遺物は発見されなかった。この不確定性が、1人または両者が生き延び、結局、合衆国に帰ったという主張につながる。これらの主張のひとつによれば、ロングボーはウィリアム・ヘンリー・ロング(William Henry Long)という名前でユタ州の小さな町ドゥーシェイン(Duchesne)に暮らした。ロングは1936年に死亡し、町の共同墓地に葬られた。彼の遺物は2008年12月に発掘され、彼がハリー・ロングボーであるか否かを決定する試験が行われ、しかし結果はウィリアム・ロング説を支持しなかった。
出典:wikipedia
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