崔立(さいりつ、またはさいりゅう ? - 1234年)は、金の政治家。しかし、彼の経歴は一切不明である。一説では寒門(貧家)出身で、無頼だったと伝わる。将陵(現・山東省徳州市)の人。若いころは寺院に籍を置き、鉦や太鼓を鳴らして、生計を立てていたようである。『金史』によると、後に金に仕官し都統、提控使を経て、遙領太原府事を歴任した。1232年(天興元年)に、スプタイ率いるモンゴル軍が汴京開封府に迫って来ると、平安都尉を兼ねて、その総指揮者となった。だが、哀宗が汴京を放棄して帰徳府に逃亡した。そのため、金の宗室である参知政事・完顔奴申(訥申)と枢密副使・完顔斜捻阿撲卜(習捻阿不)らが臨時的に汴京開封府の留守となり、彼等は実力者の崔立を西面元帥に昇格させた。だが翌年の正月早々、崔立はクーデターを起こし、上司の完顔奴申・完顔斜捻阿撲卜を殺害し、彼は実権を把握した。そこで、彼は20年間も監禁されていた衛紹王の太子であった梁王の従恪を先帝であった宣宗未亡人の李氏を通じて擁立し、従恪を再び皇太子、監国とし、彼自身は太師・兵馬都元帥・尚書令・鄭王と称した。だが、崔立は人格的に大欠陥があり、傲慢で人に媚びられるのが大好きな低俗物な人物だったようである。そして彼は金の名士であった元好問と学者でもあった劉祁らを左右員外郎に任じて、自分の功績を称える「功徳碑」を作成するように命じたという。また彼は自分の政策を猛反対する大臣を投獄して処刑したという。翌年に突然、彼は豹変してモンゴルのスプタイらに降伏を請い、宣宗未亡人の李氏・哀宗皇后の徒単氏・梁王従恪・荊王守純(哀宗の兄で従恪の従子=おい)らをモンゴルの軍営に護送して引き渡した。(男子は全て処刑され、女性は奴隷になったという)翌年の1234年の夏6月、南宋の英傑であった名将・孟珙が汴京開封府に攻めて来ると、崔立は自分に怨みを持っている武将の李伯淵らに殺害されたのである。直後に、李淵伯らは崔立の首級を持参してそのまま孟珙に降服した(その半年前には哀宗は淮西の蔡州城で自決したために金は滅亡していた)。なお、以前から崔立に対して恨みの骨髄を刻んでいた元好問は、崔立の惨殺の報を聞いて、と珍しく大興奮して、謳い出していたといわれる。
出典:wikipedia
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