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聖衆来迎寺

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は、滋賀県大津市比叡辻にある天台宗の寺院。山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の三仏。開基(創立者)は最澄と伝える。比叡山の東麓、琵琶湖岸に近い比叡辻に位置する。日本天台宗は法華経を根本経典として、天台教学、戒律、禅、密教、念仏等を広く修学し実践する宗派であるが、そうした中で聖衆来迎寺は浄土信仰の色彩の濃い寺院である。寺名の「聖衆来迎」とは、臨終の際に、西方極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩(聖衆)が現れて、亡者を迎えに来る(来迎)との意である。また、寺に伝わる国宝「六道絵」15幅は、日本における浄土信仰普及の基盤を築いた源信の『往生要集』に基づく図像である。聖衆来迎寺は、宗派および地理的位置から考えて、比叡山関連の寺院として創建されたものと思われるが、室町時代以前の歴史は史料が乏しく判然としない。寺伝によれば、延暦9年(790年)、最澄がこの地に地蔵菩薩を祀る寺を建て、地蔵教院と称したのが聖衆来迎寺の起源であるという。しかし、「地蔵教院」についてはこの寺伝以外に史料はなく、宗祖を開基に仮託した伝承の域を出ないものと思われる。その後長保3年(1001年)、源信(恵心僧都)がこの寺に入り、念仏道場として再興したという。源信がこの寺にいた時、紫の雲に乗った阿弥陀如来と二十五菩薩が現れるのを見たところから、紫雲山聖衆来迎寺と名付けたとされる。室町時代以降の寺史については、寺に伝わる『来迎寺要書』という近世の史料に詳しく述べられている。それによると、聖衆来迎寺は大永7年(1527年)、真玄という僧によって中興されている。真玄は近江守護六角高頼の五男で、俗名を六角高信といったが、永正16年(1519年)に出家して延暦寺の僧となり、真玄と称するようになった。元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちに際して、当時の聖衆来迎寺住職は仏像、仏具などを船に乗せて、琵琶湖の対岸の兵主大社(ひょうずたいしゃ)へ避難させた。しかし、比叡山の諸堂や山麓の坂本の町も焼き尽くされたにもかかわらず、聖衆来迎寺は焼き討ちを免れ、そのため多くの文化財が現代まで伝わっている。ただし、寛文2年(1662年)の大地震をはじめとする災害によって堂舎はたびたび破損し、中世以前の建物は残っていない。聖衆来迎寺が織田信長の焼き討ちをまぬがれたのは、信長の家臣・森可成(もりよしなり)の墓所がこの寺にあったためという。森可成は数々の武功を立て、織田信長の信頼が厚い武将であった。比叡山焼き討ちの前年にあたる元亀元年(1570年)、可成は信長の命で宇佐山城(現・大津市近江神宮付近)を築き、信長に敵対する浅井・朝倉連合軍に対峙したが、可成は聖衆来迎寺付近の比叡辻で戦死した。比叡山の僧兵らが信長の敵である浅井・朝倉側についたことが、翌年の比叡山焼き討ちの原因をつくったとされている。聖衆来迎寺は、比叡山との関係から言って、浅井・朝倉側に味方すべき立場にあったが、当時の住職・真雄は、敵方の大将である森可成の遺骸を夜間密かに運び込み葬ったという。天正元年(1573年)、京都にあった天台宗寺院・元応寺(元応国清寺とも)の本尊が聖衆来迎寺に移され、天正17年(1589年)には元応寺が正式に聖衆来迎寺に合併された。元応寺は後醍醐天皇の勅願寺で、現在の京都市左京区岡崎にあり、中世には法勝寺と並ぶ円戒(天台宗の戒律)の道場であったが、応仁の乱によって焼失し廃寺になっていた。現在、聖衆来迎寺客殿の仏間に安置される薬師如来像が元応寺の旧本尊とされる。本堂を中心に、表門、客殿、書院、開山堂などがある。※ 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。※ 以上の文化財は、毎年8月16日の寺宝虫干しで公開される。絵画、工芸品等の大部分は、平素は京都国立博物館、琵琶湖文化館等に寄託されている。以下は諸般の事情により、第二次大戦後に寺の所有を離れて国有となった文化財である。

出典:wikipedia

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