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白井晟一

白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。京都市出身。白井七蔵・えんの長男。父・七蔵は下京区の銅延業者で第1・2回内国勧業博覧会に出品した当時の代表的な銅板職人であったが、明治後期には工場主名簿から姿を消しており、近代伸銅工場の台頭により廃業したと見られ、呉服の行商に転じていたという。1917年、12歳で父と死別。画家近藤浩一路に16歳で嫁いだ姉のもとに身を寄せた。東京府本郷区湯島同朋町である。1918年4月、青山学院中等部に入学。その後東京での転居を経て、1923年関東大震災で近藤邸が全焼し、静岡県に一時滞在、その後京都市内に移転。1924年、京都市上京区大宮通一条上ルに転居し、4月に京都高等工芸学校図案科(現在の京都工芸繊維大学造形科学科)に入学、1928年(昭和3年)卒業。この年母と死別。学生時代から京都大学の若き哲学者の戸坂潤に兄事、さらに戸坂を通じて美学者の深田康算に私淑した。やがてシベリア経由で渡欧し、ベルリン大学哲学科に入学、ヤスパースらに師事しつつ、左翼運動に身を投じた。1931年秋、ドイツに留学して来た母校の教授向井寛三郎と親しくするが、向井から300マルク(当時の授業料が80マルク)ものの多額の借金をしたまま向井と死別してしまう。その後パリにおいて、日本人会に出入りしアンドレ・マルローや女流作家の林芙美子と出会う。1933年に帰国し、義兄邸をはじめ建築設計を手がけるようになる。第二次世界大戦中は秋田に疎開、当地でも作品を残した。戦後はモダニズム建築全盛の風潮に背を向け、哲学的と称される独自の建築を生み出す。長崎県佐世保市にある「懐霄館」と呼ばれるヨーロッパの石造の塔を思わせる建物は、白井の代表作と言える。機能としては親和銀行本店のコンピューター棟であるのだが、機能的にはおよそ不必要な形態・空間・材料が与えられており、常識的には過剰な表現および構造であるかに見える。しかしこれは、実は非常に合理的なデザインでもあった。また、東京都港区飯倉の交差点に屹立するノアビルは、事務所ビルであるが、楕円形の平面をしており、窓も極端に少ない。これは、関西(京都や大阪)にある有名な建物の影響だったことが最近わかってきた。1952年に岡本太郎が発表した「縄文土器論」の影響を受けて、1955年『新建築』誌上での丹下と川添登の対談で提起された「縄文と弥生」というテーマを受ける形で、翌1956年同誌に掲載された白井の作品解説文『縄文的なるものー江川氏旧韮山館について』は、建築界に「伝統論争」を巻き起こしたと言われる。が、実際対談や論争したことはなく、のちに吹聴されたもののようだ。 1961年、第4回高村光太郎賞(造型部門)を受賞したことは、その後の活動への大きな励みとなる飛躍であった。受賞は「善照寺本堂」などの業績に対してであった。 1969年、箱根国際会議場設計コンペの審査員を依頼されてから、その審査員長であった前川國男と親交があり、雲伴居(京都の施主の注文)やびわこ湖北寮などの完成を見ずに斃れた白井の死を、前川は「日本の闇を見据える同行者はもういない」と嘆いている。白井の建築作品を特徴付けているのは、象徴的な形態と光に対する独特の感性である。白井の作品では合理的な解法という面と、形而上学的な表現という面は分かちがたく両立している。また、コンクリート造りの内部空間はしばしば「洞窟的」と称される独特の光の扱いを示すが、木造においてはむしろ開放的に明るい。「空間」を建築創造の主題とする近代主義(モダニズム)建築の主流に迎合せず、むしろそれ以前の部屋単位の組み立てや、陰影や素材によってもたらされる(パースペクティヴ的でない)奥行き感、象徴的な造形、人間の胎内感覚といった要素を重視して別の可能性を切り開いた。一方、白井は山本有三の著書『真実一路(新潮社)』以来、自著も含む多数の装幀デザインを手掛けたことでも知られる。特に1962年創刊時にデザインされた中公新書の見開きは今も使われている。ちなみに、1941年に建築設計を手がけた嶋中山荘は、当時の中央公論社社長、嶋中雄作の別荘であった。70歳直前に初めて出版された白井の作品集も、やはり中央公論社から出版されている。1973年に創刊された中公文庫の内表紙の鳩のイラストも、担当している。また、幼少時に京都市内の近所の寺で習字を習った経歴のある白井は、九州で黄檗の書を見たことをきっかけとして、建築の仕事のない時、書に勤しんだ。「顧之書」は、漢詩や仏教用語の独特の教養を表現したものであり、生前から個展(東京)が開催されている。しかし、近年「白井研究所」所有の書には、完成作でないものまで業者(東京・月島)に渡されて書展を開催。「白井建築研究所」所有の書は別の業者(東京)が管理して松坂屋などで展覧してきた。秋田県内、特に湯沢市には白井が手がけた建築が多数残されている。羽後町の「羽後病院」が県内で最初の作品として知られている。「羽後病院」「雄勝中央病院」の図面は「白井晟一研究会」(本部・京都市・石沢加津子主宰)が2006年2月に探し湯沢市内の建設会社、丸臣高久建設で見つかった。なお、京都市出身の白井が、秋田で多くの仕事の機会を得ることができた理由は、疎開中に秋田の知人宅に家財道具を預けた縁によるものである。

出典:wikipedia

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