野球害毒論(やきゅうがいどくろん)とは、1911年(明治44年)に朝日新聞(当時の東京朝日新聞)が紙面で展開した野球に対するネガティブ・キャンペーンである。「野球有害論」とも呼ばれる。1911年(明治44年)8月29日から9月22日までの間に、東京朝日新聞は「野球と其害毒」と題した記事を22回にわたって掲載した。著名人の野球を批判する談話、全国の中学校校長を対象に実施されたアンケートの結果などで構成されている。東京朝日新聞が「野球と其害毒」を連載したのには、下記2つの理由が考えられている。この連載当時、学生野球の人気はすさまじいものがあった。1906年(明治39年)秋の早慶戦は第1戦が10月28日に早大戸塚グラウンドで慶應義塾大学が2 - 1で勝利。続く第2戦は11月3日に慶大三田グラウンドで早稲田大学が3 - 0で雪辱。第3戦は11月13日に決まったが、あまりに盛り上がりすぎて早慶のみならず審判を務める予定だった学習院にまで脅迫状が届く事態となり、無期延期となった。その後、対戦相手を失った早慶両校は渡米したり、逆にアメリカ合衆国からチームを招聘したりするようになる。選手はちやほやされるようになり、味を占めた選手の中には野球を続けるためわざと留年したあげく新任教師より年上という者まで現れた。さらに他の学校でも野球は大人気だったが、行き過ぎた応援が徐々に問題視されるようになり、野球禁止を掲げる学校が増えていった。あまりにも野球人気が高くなりすぎたために賛否両論が巻き起こったのである。もう1つの理由としてあげられるのは、ライバル大阪毎日新聞(現毎日新聞)の東京進出である。「野球と其害毒」が連載された明治44年、大阪毎日新聞社は東京日日新聞を買収し東京進出を果たしている。そこで、東京朝日新聞が自らの存在をアピールするために、当時国民的人気を誇っていた野球を利用したのではないか、というわけである。東京朝日新聞がキャンペーンを行ったにもかかわらず、野球人気が衰えることはなかった。東京日日新聞等の他紙は、野球害毒論に反対する論陣を真っ向から張った。たとえば読売新聞は、1911年(明治44年)9月に「野球問題演説会」を開催し、安部磯雄や押川春浪らが野球擁護の熱弁をふるった。大阪朝日新聞は、このキャンペーンに関して擁護記事は掲載せず(東京朝日にて連載中という案内は掲載)、キャンペーン終了直後には野球に好意的な特集記事を組んだ。さらに「野球と其害毒」連載から4年後の1915年(大正4年)、大阪朝日新聞は社会部長長谷川如是閑主導の下、全国中等学校野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)を実施することになった。当時の社説には「攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に知能を絞り、間一髪の機知を要するとともに、最も慎重なる警戒を要し、而も加うるに協力的努力を養わしむるは、吾人ベースボール競技をもってその最たるものと為す」と書かれている。1991年、朝日新聞記者本多勝一が「野球と其害毒」の記事に倣って、『新版「野球とその害毒」』を著した。ただし、朝日新聞本紙ではなく、朝日の週刊誌『朝日ジャーナル』連載だった(単行本は『貧困なる精神〈第21集〉』所収)。
出典:wikipedia
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