松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 1969年7月22日)は、日本の小説家。旧名は松岡 善譲(ぜんじょう)。新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現長岡市鷺巣町)出身。父親は真宗大谷派松岡山本覚寺の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。本来なら父を継いで僧侶になるべき立場だったが、幼い頃から仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反撥した。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。久米正雄、山本有三、菊池寛、佐野文夫ら学友と1914年に第3次『新思潮』、1916年に第4次『新思潮』を創刊した。漱石の長女筆子の愛を巡って、同門の久米正雄から嫉視される(久米の求婚を内諾した筆子が松岡に変心した)。筆子からの愛の告白に応じ、大学卒業の翌年1918年4月に筆子と日比谷大神宮で結婚、精養軒で披露宴を行なう。寺院を継ぐことを拒否し、かねて筆名として用いていた譲を戸籍名とした。1922年、久米が小説『破船』でその経緯を描いたが、当時世間は久米に同情し、松岡を友情を破った男のように見なした。松岡の子供が近所の子と遊んでいると、その子の母親が飛び出してきて「あんな悪人の子供と遊んじゃいけません!」と叱りつけたこともあった。久米は『破船』のほかにも、「夢現」、「敗者」、「受験生の手記」、「蛍草」など松岡・筆子との一件をもとにした作品をいくつか執筆、松岡・久米共通の友人である菊池寛は「友と友の間」を書いた。松岡は結婚から10年後の1928年に、筆子との結婚に至る詳細を、1200ページを超える長編小説『憂鬱な愛人』として発表した。筆子の一件以来、久米とは不倶戴天の間柄だったが、約30年後の1946年に和解した。自伝小説『法城を護る人々』はベストセラーとなった。代表作には他に、20世紀初めの敦煌を舞台に「敦煌文書」発見をめぐる『敦煌物語』がある。また漱石の妻夏目鏡子の談話をまとめた『漱石の思ひ出』も文庫などで広く読まれた。結婚後は作家活動より漱石鑑定家として知られ、1920年から亡くなるまでに真作500点、贋作2000点近くを鑑定した。二女の松岡陽子マックレインは比較文学研究者で、オレゴン大学名誉教授。四女の半藤末利子は随筆家で、夫は昭和史研究家の半藤一利。
出典:wikipedia
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