エイドリアン・カンポス・スネ(Adrián Campos Suñer, 1960年6月17日 - )は、スペイン・バレンシア県出身の元レーシングドライバーである。正式なスペイン語発音に近い「アドリアン・カンポス」と表記されることもある。ラジコンカーのスペインチャンピオンになった後サーキットレースに転じ、1983年から1985年にはドイツF3などで走り、1985年にはドイツF3選手権の年間ランキング3位に輝き、1986年はヨーロッパF3000選手権にステップアップした。同年にはティレルのF1マシンをテストした。1987年に下位チームのミナルディチームからデビューしたが、この年の同チームのマシン「ミナルディ・M187」に搭載されるモトーリ・モデルニエンジンの信頼性が極めて低く、カンポスの完走は年16戦でわずか1回(地元のスペインGP)にとどまり、つらいデビューとなった。チームメイトのアレッサンドロ・ナニーニも同様の理由から2回の完走しか果たせなかったが、予選、決勝ともに、内容としてはカンポスはナニーニに対して遅れを取った。また、デビュー戦の1987年ブラジルGPでは、フォーメーションラップのスタート時に出遅れ、他車に追い抜かれた後、スタート時に自身の16番手グリッドにそのまま付けたため、これが問題視され、3周目に黒旗が提示され失格となっている。翌1988年はこの年デビューで、同じくスペイン人ドライバーのルイス・ペレス=サラがチームメイトとなったが、カンポスは予選で完敗した上、出走台数が多かったこともあり第3戦モナコGP、第4戦メキシコGP、第5戦カナダGPの3戦に連続で予選落ちすると、シーズンの途中でピエルルイジ・マルティニと交代させられた。カンポスはF1において全21戦にエントリーしたが、最後の3回の予選落ちにより、出走回数としては18戦を数えるにとどまった。F1から去ってからは、スペイン国内のツーリングカーレースで成功し、1994年にはスペインのツーリングカー選手権でチャンピオンとなった。1997年にはフェラーリ・333SPでル・マン24時間レースにも参戦した。ドライバーを引退してからは自身のレースチーム「カンポス・レーシング」を設立し、ニッサン・オープン・フォーチュナ選手権(後に“ワールドシリーズ・バイ・ニッサン”に改称)に参戦を始めた。1998年に、このチームの最初のドライバーとなったマルク・ジェネは、同選手権においてタイトルを獲得し、翌1999年にはF1へとステップアップし、カンポスにとって古巣であるミナルディからデビューした。その翌年1999年には、同シリーズにおいて、後のF1ワールドチャンピオンで、当時18歳のフェルナンド・アロンソをデビューさせた。アロンソも即座にチャンピオンとなり、国際F3000へとステップアップしていき、後にやはりミナルディからF1にデビューした。その後、カンポス・レーシングは同選手権が改組されたワールドシリーズ・バイ・ルノーには行かずGP2へと鞍替えし、カンポス・グランプリ、バルワ・インターナショナル・カンポス・チームへとチーム名を変え参戦していたが2008年にGP2からは撤退し、2009年にフォーミュラ1の参戦権を得て「カンポス・グランプリ」として2010年のF1世界選手権から参戦予定であった。しかし、スポンサー獲得などの運営資金が集まらず、ダラーラへの開発資金や参戦費用などが滞ったため、経営責任を問われて代表を辞任、経営権も筆頭株主であるホセ・ラモン・カラバンテに譲渡し、カンポス自身は同組織の副社長に就任することが発表された。
出典:wikipedia
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