関本 四十四(せきもと しとし、1949年5月1日 - )は、新潟県糸魚川市出身のプロ野球選手(投手)・指導者・解説者・評論家。大洋時代の登録名は関本 充宏(せきもと みつひろ)。新潟県立糸魚川商工高等学校では、エースとして夏の甲子園予選北越大会準決勝に進出するが、新湊高に完封を喫し甲子園には届かなかった。同年のドラフト10位で読売ジャイアンツ(巨人)に入団。同期に高田繁らがいる。ドラフトで指名されながら、打撃投手としての扱いしか受けず入団3年間は一軍登坂なし。より一軍ローテーションに定着し、10勝11敗の成績をあげ、ヤクルトの若松勉との新人王争いを制す。入団4年目での新人王受賞は小関竜也(、西武)と並ぶ。にも10勝をマークし、防御率2.28で最優秀防御率を獲得する。しかし、長嶋茂雄監督のの最下位による戦力補強のあおりを受け、に加藤初、伊原春樹とのトレードで太平洋クラブライオンズへ移籍、には山下律夫投手とのトレードで大洋ホエールズへ移籍し、横浜大洋ホエールズとなったに引退。引退後は文化放送解説者(他にテレビ朝日を含めベンチリポーター出演有り)、ベースボール・マガジン社顧問を経て、からまで巨人二軍投手コーチを務めた。からはラジオ日本解説者とデイリースポーツ評論家を、からには巨人二軍投手コーチを務めた。からは再びラジオ日本とデイリースポーツの評論家活動を行なっている。2014年3月に玉川大学野球部の特別コーチに就任する。名前の「四十四」は、関本の父が44歳の時に生まれたことに由来する。その父は相撲が好きで野球に興味がなかったらしく、関本がドラフトで巨人に指名された際にも「背番号は何番だ、1番か」(高校野球では主戦投手が1番だったため)「お前、背番号44はもらえんのか」と心配しており、プロ入りが決まった後も「もし駄目だったら立浪部屋へ電話するから」と言う始末(当時の立浪親方が新潟県出身だったため)。関本の父は巨人の44番が外野手の才所俊郎であるばかりか、1番が当時6年連続本塁打王だった王貞治であることさえ知らなかったという(後述の加藤との対談より)。1971年には1軍での登板がないにもかかわらず、背番号が53から20に変更されたが、これは当時の川上哲治監督の独断によるものである。それまでの巨人の20番は大友工や堀本律雄がつけるなど「準エース」のイメージが強かったため牧野茂ヘッドコーチなどは猛反対したが、川上監督が「俺が来年関本を使うんだ」と押し切ったという。関本は川上の期待に応えて新人王を獲得したが、現役引退後のベースボールマガジンで加藤博一と背番号について対談した際に、「まだ海の物とも山の物とも分からないような奴によく20番なんか与えたもんだよ」と苦笑しながら話していた。その後関本は1975年の1年間だけ背番号を自分の名前にちなんだ44番にするが、当時から背番号を大きくすることは「降格」を意味することと考えられており、しかも、最優秀防御率のタイトルを獲得した投手が大きな番号への変更を申し出た前例はなかった。しかし関本がフロントに「背番号を20から44に変更したい」と伝えたところ、その場で了承されたという。44へのこだわりはやはり強く、巨人の二軍コーチを務めた1990年から2年間は背番号144を使用した(背番号144というのは選手は勿論の事、監督・コーチ陣においても非常に珍しい)。太平洋に移籍した時の背番号が18番で、巨人ではエースナンバーとされていた事から、『独特の雰囲気があり、オレには相応しくない。案の定、1年だけだった。大洋に再移籍して14番をもらった時にはホッとしたよ』と前述の加藤との対談で語っていた。
出典:wikipedia
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