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ジュノー (CL-52)

ジュノー (USS Juneau, CL-52) は、アメリカ海軍の巡洋艦。アトランタ級軽巡洋艦の2番艦。艦名は当時準州の扱いであったアラスカ州の都市ジュノーに因む。第三次ソロモン海戦で戦没。ジュノーはニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社で1940年5月27日に起工。1941年10月25日に進水し、アラスカ州ジュノーの市長夫人、ハリー・I・ルーカスによって命名される。艦長大佐の指揮下、1942年2月14日に就役した。慣熟航海後、5月はじめからフランス・ヴィシー政権の海軍艦隊の逃走阻止のためマルティニーク、グアドループ沖で海上封鎖に当たった。7月1日から8月12日までは北大西洋とカリブ海で哨戒や護衛任務に従事していたが、8月22日、太平洋へ向けて出発した。トンガおよびニューカレドニアに短期間滞在した後、9月10日に空母ワスプ ("USS Wasp, CV-7")を中心とする第18任務部隊(レイフ・ノイズ少将)と合流した。翌日、空母ホーネット ("USS Hornet, CV-8") を含む第17任務部隊と第61任務部隊を編成した。部隊の任務はガダルカナル島への戦闘機の輸送であった。9月15日、ワスプは日本の潜水艦伊19の発射した魚雷が3本命中し、駆逐艦 ("USS Lansdowne, DD-486") の魚雷で処分された。ジュノーや護衛の駆逐艦は1,910人の生存者を救助して16日、ニューヘブリディーズ諸島のエスピリトゥサント島へ送った後、17日に第17任務部隊へ戻った。ジュノーは一旦引き返した後、重巡洋艦ポートランド ("USS Portland, CA-33") とともに、再び南太平洋の戦場に向かった。その途中の10月15日、ジュノーとポートランドはタラワ南方を通過中、砲撃訓練を兼ねてタラワ在泊中の測量艦筑紫に対して艦砲射撃を行い、次いでタラワに入港しつつあった特設巡洋艦浮島丸(大阪商船、4,730トン)、特設給糧艦日立丸(日産汽船、6,540トン)、駆逐艦夕月に対して砲撃を行った。砲撃により、筑紫の内火艇が沈没した他、日立丸の便乗者に死傷者が出た。ジュノーはキングスミル諸島を遊弋し、ポートランドはタラワのほか、マイアナの両環礁に対して砲撃を行った。さらに、特設監視艇2隻がジュノーおよびポートランドと接触した後行方不明となった。日本側は反撃のため九七式大艇と一式陸攻を繰り出したが、ポートランドとジュノーはすでに去った後だった。10月26日に行われた南太平洋海戦は、ジュノーが経験する最初の大規模な戦闘となった。10月24日、空母ホーネットの部隊は空母エンタープライズ ("USS Enterprise, CV-6") の部隊と第61任務部隊(トーマス・C・キンケイド少将)を再編成した。 任務部隊はサンタクルーズ諸島の北方に位置し、ガダルカナル島への接近を試みる日本艦隊を妨害しようとした。10月25日夜、日本艦隊はルンガ沖に接近して物資の揚陸に成功したが、これは日本の機動部隊が接近する一つのサインとなった。10月26日朝、味方任務部隊から発進した艦載機は、南雲忠一中将率いる機動部隊を発見し、ただちに攻撃。2隻の空母と1隻の戦艦、3隻の巡洋艦に打撃を与えたと見られた。しかし、味方攻撃隊と入れ違いに日本攻撃隊が任務部隊上空に出現した。10時を回り、27機の攻撃隊がホーネットを攻撃した。ジュノーは他の艦艇とともに有効な対空砲火を打ち上げ、20機を撃墜したがホーネットは命中弾を受けて大破し、日本艦隊から前進してきた駆逐艦秋雲と巻雲によって撃沈された。ジュノーは正午の少し前にエンタープライズの任務部隊に助太刀として向かった。ジュノーはエンタープライズに対する4度の攻撃に応戦し、18機の日本機を撃墜した。夜になって任務部隊は東南方向に避退した。アメリカ側は戦術的には敗北したが、大局的に見ればガダルカナル島、ひいてはソロモン諸島でのアメリカ海兵隊の勝利に、最終的に結実することとなった。日本側は空母翔鶴と瑞鳳が大きく損傷し、ガダルカナル島攻防戦にかかわる水上戦での空中援護は実質できなくなった。11月8日、ジュノーは第67任務部隊(リッチモンド・K・ターナー少将)の一員として、ガダルカナル島への増援部隊の護衛としてニューカレドニアのヌーメアを出撃し、12日朝にガダルカナル島沖に到着。ジュノーは揚陸作業中の輸送艦と貨物船の護衛につき、14時5分に30機ほどの日本機が空襲を仕掛けてくるまで、作業は一切邪魔されなかった。ジュノーは対空砲火で6機を撃墜し、残存機も1機を除いて味方戦闘機隊の攻撃から逃れることは出来なかった。その日も遅くなった頃、任務部隊は「有力な日本艦隊がガダルカナル島に向かいつつあり」という情報を受信した。翌11月13日1時48分、ダニエル・J・キャラハン少将率いる巡洋艦と駆逐艦の一隊は、2隻の戦艦、1隻の巡洋艦および9隻の駆逐艦からなる日本艦隊(阿部弘毅中将)と交戦した。海戦は、悪天候と誤解および錯綜する情報による混乱が重なり、真っ暗闇の海上で至近距離での撃ち合いに終始した。ジュノーは海戦で日本艦隊が発砲する瞬間をとらえて攻撃し、駆逐艦夕立と思われる艦艇を炎上させた。しかし、ジュノーの発砲する瞬間も日本艦隊のよい目標となっていた。やがて、ジュノーの左舷機関室に天津風からのものと思われる魚雷が1本命中し、一時航行不能に陥った。海戦終了後、ジュノーは艦首を約4メートル沈めつつ、海戦で大損害を受けた重巡洋艦サンフランシスコ ("USS San Francisco, CA-38") 、軽巡洋艦へレナ ("USS Helena, CL-50") および駆逐艦とともにエスピリトゥサント島に向けて退却し始めた。サンフランシスコはジュノーの右舷艦尾から730メートル離れたところを航行し、艦隊は13ノットの速力でインディスペンサブル海峡を通過しつつあった。ところが11時過ぎ、艦隊はこの海域で哨戒していた伊26(横田稔中佐)に発見された。伊26はわずかな前に艦首発射管のうち3門が接触事故で使用不能となっていたので、残る3門から魚雷を3本発射。そのうちの1本がジュノーの火薬庫付近に命中し、ジュノーは大爆発を起こして船体が2つに折れ、20秒で轟沈した。サンフランシスコとヘレナ、および駆逐艦は更なる攻撃を恐れて即座に去っていった。ジュノーは沈没時、100名の生存者がいたが、救助を待つ8日間の間に、サリヴァン兄弟を含む、スウェンドン艦長以下全ての乗組員がサメの攻撃などで落命した。五人兄弟全員がジュノーの乗組員だったサリヴァン兄弟は2名が艦と運命をともにし、いくつかのレポートを総合すると、残る3名は漂流したものの間もなく水中に消えていった。以後アメリカ軍では、親類は分散配置する方針が徹底した。この実話は映画「プライベート・ライアン」(スティーヴン・スピルバーグ監督)のプロットに影響を与えている。また、10名の生存者のうちの1人だったオーレル・セシルはカリフォルニア州に住んでおり、2008年10月30日にサンディエゴで行われたドック型揚陸艦ジュノー ("USS Juneau, LPD-10") の退役式に招待された。ジュノーは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。

出典:wikipedia

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