冷やし中華(ひやしちゅうか)とは、冷やした中華麺を使った日本の料理である。野菜、叉焼かハム、錦糸卵などの色とりどりの具材を麺にのせて、冷たいかけ汁を掛けて食べる、夏の麺料理として日本各地で食べられている。地方によって、呼び方に相違がある。茹でてから冷水で冷やしシメた中華麺を、やや深めの皿に盛ってから、その上に細切りのハムか叉焼、錦糸卵、キュウリやトマトなどの具をそれぞれ互いに混ざることのないように彩り良く盛り付け、醤油と酢あるいは芝麻醤(ゴマだれ)をベースにした冷たいかけ汁をかけて食べる。肉類は様々で細く裂いた蒸し鶏を使用したり、地域によって、また作り手によって違いがある。練りからしを添えて食べるのが定番。細切り紅ショウガも利用される。夏バテなどを催させる日本の厳しい夏の間、そのさっぱりした食感と様々な具を使用する事から、家庭食・外食を問わず、特に夏に食される事が多く、夏の風物詩であり季語にもなる。多くの中華料理店では、秋から春にかけてはメニューに置かず、夏の訪れと共にメニューに追加すると「冷し中華始めました」という貼紙を店に貼り告知する。コンビニエンスストアにとっては夏の主力商品となる(2月14日以降または3月3日頃から発売しているスーパー、コンビニもある)。1975年にジャズピアニストの山下洋輔が冬に冷やし中華を食べられないことを憤慨し、SF作家の筒井康隆や中洲産業大学教授タモリ等と共に「全日本冷し中華愛好会」(全冷中)という団体を立ち上げ、「冷し中華祭り」(1977年に第1回、1978年に第2回)を開催した。冷やし中華のスープを製造しているヒゲタ醤油に山下洋輔の兄が勤務しており、そのヒゲタ醤油が冷やし中華祭りのスポンサーとなったため、会長とスポンサーとの黒い癒着が疑われることとなった。これに対して会長の山下洋輔は、自分がこのまま居座ると会の発展を阻害するとして、第1回の「冷し中華祭り」の場で辞意を表明し、筒井康隆が2代目の会長となった。また全冷中は会報「冷し中華」を発行した。その内容は『空飛ぶ冷し中華』(住宅新報社 1977年4月、)『空飛ぶ冷し中華 part2』(住宅新報社 1978年6月、)という本にまとめられた。執筆者は、山下洋輔、筒井康隆、奥成達、平岡正明、坂田明、日比野孝二、河野典生、上杉清文、山口泰、伊達政保、舎人栄一、岡崎英生、瀬里なずな、小山彰太、池上比沙之、堀晃、黒鉄ヒロシ、赤瀬川原平、高信太郎、長谷邦夫、南伸坊、末井昭、長谷川法世、タモリ、吉峯英虎、赤塚不二夫、高平哲郎、朝倉喬司。1995年に冷やし中華の愛好家らによって、7月7日が「冷やし中華の日」として日本記念日協会に登録された。由来はこの日が二十四節気の「小暑」となることが多く、冷やし中華がおいしい季節となるためだという。1929年(昭和4年)に発刊された「料理相談」(安東鼎編、鈴木商店出版部)という本には冷蕎麦(ひやしそば)の一項があり、シナそばを茹で、酢、砂糖、氷をまぶし、その上に叉焼、キュウリ、ラッキョウ、タケノコを乗せ、冷スープ、醤油、酢、コショウをかけるとの記述がある。1936年(昭和11年)に発行された雑誌『栄養と料理』には三絲涼麺(サンスーリャンメン)として鶏肉、焼豚、キュウリ等を細切りにして、水にさらした麺の上にのせ、酢、砂糖、醤油等のタレをかける料理が紹介されている。他方、細切りの具を彩りよく盛った現代風の冷やし中華の原型は五色涼拌麺(五目冷やしそば)として東京の神田神保町の揚子江菜館で第二次世界大戦後または1933年(昭和8年)に創作されたとされている。2代目オーナーの周子儀が、上海で食べられていたもやしと細切りの肉を冷した麺に乗せて食べる涼拌麺とざるそばから着想を得たとされる。様々な細切りの具を皿の中心から放射状に盛る独特の形式は富士山とそこに積もる雪をイメージして作られた。また、京都の「中華のサカイ」は、創業時(1939年)より、ゴマだれを使った「冷麺」(関西および西日本での「冷し中華」の呼称)をメニューに載せており、関西では、関東以北の「冷し中華」とは異なり、独自に発展したとする説もある。異説として、戦後、寿がきやが心太(ところてん)のつゆ(三杯酢)を冷やしたラーメンに掛けたのが今のスープによる冷やし中華・冷麺の発祥とする説もある。
出典:wikipedia
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