株式会社アール・エフ・ラジオ日本(アール・エフ・ラジオにっぽん)は、神奈川県を放送対象地域として中波放送(AM放送)をする特定地上基幹放送事業者である。通称はラジオ日本。旧社名はラジオ関東。FM補完中継局 (ワイドFM) 用として92.4MHzが割り当てられているが、2020年3月31日までに開始しない局の周波数は、割当が削除されることになっている。。ラジオネットワークに属さない独立放送局であるが、ラジオ関西、岐阜放送と提携して番組を相互供給している。かつては極東放送(現:FM沖縄)ともネットを組んでおり、この4地区(神奈川県・兵庫県・岐阜県・沖縄県)のみの天気予報を放送していた時期もあった。AMステレオは実施しなかったが、radikoにはステレオで配信している。長期にわたる聴取率低迷と経営の混乱(#「社会の木鐸」宣言参照)から、日本テレビの資本参加を受け事実上傘下に入った(2011年(平成23年)4月現在非連結子会社)。日本テレビホールディングスの公式サイトでも「日本テレビ系ラジオ中波放送」として紹介され、中堅アナウンサーが輪番制でアール・エフ・ラジオ日本に出向するなど、関係が強化されている。神奈川県の局ながらも日本テレビ・読売新聞社が資本に関連していたため、いずれも東京都が本拠である読売ジャイアンツ(東京ドーム主管試合)、東京ヴェルディ1969(味の素スタジアム・国立霞ヶ丘陸上競技場他都内主管試合)において広告看板(なんだろうマーク付き)を掲示したことが有る。ラジオ関東は、開局以来「洋楽のラジ関」の通称で親しまれ、イベントでラジオ日本が出展するブースには、決まって自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示された。また、その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていた他、1970年代後半には吉崎四平プロデューサーがコールサインの「JORF」を「JOロックフレンズ」と読ませ、ロック音楽に力を入れた。しかし、創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営にあたった遠山景久は、1977年(昭和52年)に巨人戦ホームゲームの独占中継権を獲得したことに乗じてワンマン体制を強化させ、社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に変更した後の1982年(昭和57年)には、「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を敵視し大幅に削減。反共主義色の濃い論説や演歌の多い、中高齢層対象番組中心に編成を一変させ、タクシーやトラックの運転手、一部保守的リスナー層に浸透した一方で、全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退し、経営悪化が深刻になった。神奈川の県域放送として免許されたが、関東平野一円で聴取できる実態があり、遠山時代には東京支社に社員の9割が配置されるなど、東京支社が実質的な本社・演奏所として機能していた。1986年(昭和61年)に横浜市土地開発公社が払い下げた横浜市中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮し、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにも関わらず、建築計画には演奏所も送信機もアンテナ塔も無い単なるテナントビルである事が暴露され、慌てて放送設備等を備えた計画に変更されるなど、社会的非難を浴びる問題も生じた。会長として従前権勢を揮っていた遠山は、大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年(平成元年)4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る。さらには、意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇し、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴されたり、管理職研修を自衛隊で行ったり、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行した。長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部は、1993年(平成5年)12月21日に取締役会を実施し、その席上で全会一致で遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任し、ワンマン体制に終止符が打たれた。これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失って、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。後任社長には、外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同じく、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、1994年(平成6年)2月に「乱脈経営で会社に損害を与えた」として遠山を告訴し、遠山の土地・家屋を差し押さえて、一族所有の同局株式を日本テレビに譲渡させ、事実上の日本テレビ傘下に納めたことで、混乱に一応の終息を見た。これにより経営破綻寸前であった同社はそれを免れ、以後数年間にわたって再建した。その後、編成方針については、当初は競合他局との差別化を図る意図から劇的な変化を避け、長年にわたりミッキー安川を複数番組で重用し、没後も実子のマット安川を起用している他、演歌番組も多く編成するなど、高齢者志向を続けていた。また、報道面では2009年(平成21年)11月に深夜放送「ラジオ時事対談」を開始する等、遠山時代の名残だけでなく、現在提携関係にある読売新聞・日本テレビの影響もあり保守的傾向となっている。2000年代以降には以前排除されたアイドル系タレントが参加する若者向けの番組が主に週末を中心に増えつつあり、イメージ払拭のキャッチフレーズに「こんな番組もやってます」として夜のアイドルパーソナリティの写真を中心に散りばめた広告戦略を打っている。同局では、送信所・中継局を放送局と称する。企業・団体は当時の名称。出典:いわゆる「社会の木鐸」宣言以降の混乱からは近年は落ち着いて来ているが、毎月番組の突然の打ち切りや時間移動は絶えず、不安定な編成が続いている。極端なケースではタイムテーブルや公式サイト上の「本日の番組」並びに放送中番組名表示の変更が間に合わず、終了した番組名が表示されることもしばしばある。前述の通り、実質的な本社機能を東京支社が担っていることもあり、生ワイド番組を含め、自社制作の殆どの番組は東京支社スタジオからの送出となっている。横浜本社では月 - 木曜 午後帯ワイド、小田原放送局向け 金曜午後ワイドの送出、本社ビル1階のラジアントホールでの公開録音などに限られている。オープニング/クロージングのアナウンスは岡本美紀のものであるが、過去に男性アナウンサーが行ったものがある。いずれも「こちらは JORF アール・エフ・ラジオ日本、JORL アール・エフ・ラジオ日本小田原放送局です」というアナウンスが入っている。1981年(昭和56年)秋頃に「なお、ラジオ関東は10月1日からアール・エフ・ラジオ日本と社名変更します」とのアナウンスがあった。毎週月曜日4:58:20頃からややアップテンポな音楽が始まり、「1422 ラジオ日本」と歌って終わる。その後岡本の声で、放送開始であることを告げる。その後5時の時報を挟んで月曜日の朝一番の番組へと繋ぐ。毎週日曜深夜25:30(月曜未明1:30)を回って、岡本の声で放送が終了することを告げる。クロージングでは「どちら様もごきげんよう」のフレーズも入り、その後はカーメン・ドラゴン指揮、キャピトル・シンフォニー・オーケストラが演奏するウェールズ民謡の「夜もすがら("All Through the night (Ar Hyd y Nos)")」が流れる。これは前身の「ラジオ関東」当時から使われているもの。時報はパイプオルガン的な音色の電子音で4秒前から「ソ・シ・ソ――ポーン」(“3, 2, 1”のカウントダウンではない)。1989年(平成元年)頃までは「ソ・シ・ソ」の部分がチューブラーベルの演奏であった(文化放送の1979年(昭和54年)までの時報と同様)。現在は、地方局と同じ音程の時報だが、「ポーン」と延ばさず「ポン」と鳴った瞬間に音が絞られる時報である。時報広告は少なく、散発的に聞かれるのみである。時刻案内もまれに女性の声で「○時をお知らせします」とある程度で、多くはされない。(全て契約アナウンサー)
出典:wikipedia
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