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児島郡

児島郡(こじまぐん)は、岡山県(備前国)にあった郡。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。現在の岡山市、倉敷市、玉野市にまたがる児島半島を中心にした郡域であり、古くは島嶼であった児島とその周辺の島嶼が郡域であった。後に備中国浅口郡となる連島や水島群島、また現在香川県となっている小豆郡や香川郡の直島諸島なども属していた。明治以降の旧郡域はほぼ現在の児島半島と一致し、半島北西部で本州とつながる。北東側には児島湾を形成した干拓地の一部を含み、南側から西側にかけては瀬戸内海に面する。なお、古くは漢字表記は「児」は兒・子・仔など、「島」は洲・嶋などと数種の表記が混在したが、明治初期に「児島」と表記が統一された。近世までは瀬戸内海に浮かぶ「児島」という島で、『日本書紀』の国生み神話では吉備子洲(きびのこじま)あるいは子洲(こしま)と記され、これが初見となると同時に吉備の初見ともなっている。『古事記』では吉備兒島と記され、本州や九州などの大八島の次に生まれたとし、古代日本列島の主要な島の一つとして認識されていたことがうかがえる。本郡はその児島と周辺島嶼から成っていた。児島北側の本州との間には吉備の穴海と呼ばれる海域が広がっており、瀬戸内海を東西に結ぶ海上交通路の一部となっていた。吉備の穴海は吉井川、旭川、高梁川の3大河川による沖積作用に加えて、古代から続けられた中国山地でのたたら製鉄にともなって土砂が流入・堆積していき、戦国末期には源平合戦の古戦場となった藤戸の瀬戸の干潟が干潮時には歩いて渡れるほどになっていたといわれる。その後、江戸時代初期の大規模な干拓事業により、まず児島北西部の浦田(倉敷市)付近で完全に本州とつながり、児島は児島半島となり、穴海東部は児島湾となった。本郡は古代の律令制成立時から一貫して存在したが、郡域は幾度かの変遷を経ている。設置当初は後に備中国浅口郡となる連島や水島群島、現在の香川県となっている小豆郡(小豆島・豊島など)や香川郡の一部(直島など)などを含んでいた。和名抄には三家郷、賀茂郷、児島郷、都羅郷の4郷が記載されている。郡衙の位置については三家郷(岡山市南区郡あたり)や児島郷(倉敷市児島の林あたり)などの説がある。また、平城宮出土の木簡には「吉備国子嶋郡小豆郷」、「備前国児嶋郡賀茂郷」との記載がある。延喜式神名帳には鴨神社と田土浦坐神社が記載されている。小豆島は一時、本郡から小豆郡として独立した。備前国内神名帳には小豆郡の名があり、少なくともこのころは本郡から分立していた。その後、小豆郡の名は消え、ふたたび児島郡に戻っている。その後も郡境は確定しなかったようで、江戸時代には小豆島は天領を経て津山藩領、直島は倉敷支配所管轄の天領となったが、国境に関しては明確に決まっておらず、備前国として扱われることもあれば、備中国や讃岐国として扱われたりと一定していない。江戸時代に海域を含む国境争論が児島湾側では備中国と、瀬戸内海側では讃岐国や天領で自治が認められた塩飽諸島との間にたびたび起きたことが記録に残る。明治初頭の廃藩置県直後では、前出の3諸島は倉敷県や北条県、岡山県となるなどを経て、小豆島と豊島は小豆郡(しょうずぐん)に、直島は香川郡となってともに香川県に編入され、児島郡は岡山県となって郡域が確定した。郡制廃止後の地方事務所は玉野市に設置された。

出典:wikipedia

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