インド・ヨーロッパ祖語(インド・ヨーロッパそご、、)とは、インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)の諸言語に共通の祖先(祖語)として理論的に構築された仮説上の言語である。印欧祖語(いんおうそご、いんのうそご)ともいう。この言語の成立から崩壊までの期間は先史時代に当たり、文字が存在せず、全て口伝により子孫へと受け継がれたため、直接の記録が一切残っていない。そのため、派生した言語からの推定により再構が進められている。クルガン仮説によれば6000年前にロシア南部で、によれば9000年前にアナトリアで話されていた。ラテン語・ギリシア語・サンスクリットなどの各古典言語をはじめ、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語などヨーロッパで話されている言語の大部分や、トルコ東部からイラン、インド亜大陸、スリランカにわたるクルド語・ペルシア語・ウルドゥー語・ヒンディー語・シンハラ語などの言語は、いずれもこの印欧祖語から派生して成立したとされる。崩壊期の印欧祖語は豊富な接尾辞をもつ屈折語であったとされる。これは、印欧語族の諸言語同士の比較再構による推定による。印欧語族の言語は、屈折的語形変化の大部分を失ったものも多いが、英語も含めて依然全て屈折語である。しかし近年の内的再構とその形態素解析により、より古い段階の印欧祖語ではセム祖語のように語幹内の母音交替を伴う屈折が起こっていた可能性が極めて高いことが判明した。印欧祖語は18世紀に、ラテン語・古典ギリシア語・サンスクリットといった、当時知られていたインドおよびヨーロッパの諸言語の共通の起源をなすものとして提案された。当初、他の言語から隔たっていたアナトリア語派とトカラ語派は印欧語に含められず、喉音理論も考慮されていなかった。しかし両語派の存在が明らかになり、またヒッタイト語に喉音の存在が確認されると、崩壊期の1000年程前にまずアナトリア語派が、続いてトカラ語派が分化したという形で理論的に組み込まれることになった。現在では印欧祖語の性質、歴史、原郷を再建する際、これら2語派の存在も考慮されている。印欧祖語は文字を持たなかったため直接の証拠は存在せず、音韻および語形は全て娘言語をもとにした比較再構と内的再構によるものである。なお、印欧祖語の単語には、それが再建された形であることを示すために「*」(アステリスク)が付される。印欧語族に属する言語の単語の多くは、祖語のひとつの祖形をもとに一定の音韻変化の法則によって派生したものと考えられている。単語の例: *(水)、*(犬)、*(3、男性形)印欧祖語と他の語族との関係については諸説あるものの、印欧祖語よりもさらに時代を遡るためにいずれも推測による部分が大きく、従ってこれらの仮説の妥当性が問題となる。最も広範に支持される説は、印欧語族とウラル語族を包括するインド・ウラル語族説である。両語族の原郷が近い点、両祖語が類型論的に近似している点、一部の形態素が明らかに同一である点などが一般に証拠とされる。しかしインド・ウラル語族説を主張するも、ウラル語族と印欧語族の差異を認めており、またウラル語族の権威であるは、両語族間の関係は存在しないとしている。さらに過去に遡って他の語族との関連を見出す説も存在する。これらの他にも、ウラル・シベリア語族、ウラル・アルタイ語族、黒海祖語といった、推定上のユーラシア語族やコーカサス諸語に関係付ける様々な仮説が存在する。他語族との類似点印欧祖語はこれら諸語族の混合言語である可能性も考えられる。印欧祖語から娘言語が分化する際、娘言語に応じた音韻変化の法則により音韻体系が変化した。主要な音韻変化の法則には以下のものがある。印欧祖語は以下のような音素体系を有していたと推測されている。娘言語において祖語の音素がどのように変化したかは、インド・ヨーロッパ語族の各言語の項目を参照されたい。この表では、近年の出版物において最も一般的な表記法を採用した。上付きのは有気音を示す。また喉音理論では、上表の有声閉鎖音は咽頭化音もしくは放出音で、有声有気音は無声有気音だった可能性もあるとしている。両唇音は、、の3つとされ、包括記号"P"で表されるが、両唇音の出現頻度は極めて低い。放出音をもつ言語は両唇放出音を持たない傾向があるため、両唇音の出現頻度の低さは喉音理論の論拠とされる。再建により、, , の3つの歯音が一般に同定されている。これらの子音は包括記号"T"で表される。ある研究者は、子音クラスター"TK"が祖語の段階で音位転換を経て"Kþ"となっていると主張している。根拠は以下の通り。一方、*(「焼く」の意、ゲルマン祖語で昼を表す"*"と同根)のサンスクリット語での語形は、「彼は焼く」とするとき(< *)なのに対し、「焼かれている」とするとき(< *)である。これについては、母音交替の程度によって音位転移を経る語形と経ない語形が存在するとしている。印欧祖語の舌背音として、軟口蓋硬口蓋化音、軟口蓋音、軟口蓋円唇化音の3系統が再建されている。これはケントゥム語派とサテム語派の比較により発見された。上付きのは、円唇化、つまり軟口蓋閉鎖音を調音する際に唇を丸めることを示している(は、英語ののの部分に見られる音に似た音である)。ケントゥム語派では軟口蓋硬口蓋化音が軟口蓋音に同化したのに対し、サテム語派では軟口蓋円唇化音が軟口蓋音に同化した。普通の軟口蓋音(、、)と口蓋化音や円唇化音との関係について、この普通の軟口蓋音が他の2種の軟口蓋音からいつ独立した音素となったかが議論の的となっている。ある音声的条件下では前者は後者に中和するため、結果ほとんどの場合で普通の軟口蓋音は異音として出現するのである。この異音化がいつ起こるのかは正確には特定されていないが、sまたはuの後、もしくはrの前で中和が起こることが広く認められている。さて、印欧語学者の多数は崩壊期直前には既に3つの軟口蓋音の系統が認められていたとするが、一方コルトラントを含む少数学派は、普通の軟口蓋音はサテム語派の分岐後、その一部から発展したとしている。これは1894年、アントワーヌ・メイエにより唱えられた説である。印欧祖語の時点で既に3系統の軟口蓋音が弁別されていたとする説の証拠としては、アルバニア語とアルメニア語、ルウィ語がしばしば言及される。アルメニア語とアルバニア語では普通の軟口蓋音が軟口蓋円唇化音と一定状況下では弁別され、またルウィ語には3系統の軟口蓋音が反映されたとみられる3種類の音素(<*、おそらく)、(<*)、(<*、おそらく)が存在するのである。しかし、一方コルトラントはこの証拠の重要性に疑問を呈している。()普通の軟口蓋音が単独の音素となった時期については、音素分析された種々の異音が本来どのように分布していたかが類推展開では不明瞭になるうえ、またこの問題に確固とした結論を出せるほど直近の事例ではなく、また証拠も十分に存在しない。そのため、この論争が終局的に解決する見込みはない。、および有声音の異音としての。喉音理論によれば、いくつかの摩擦音があったとされるが、実際の音価については意見の対立がある。また、および音の異音としての摩擦音、も存在していた。「、、」、これらの包括記号としての"H" (もしくは「、、」と")は、理論上の喉音の音素である。これらの音価については意見の分かれるところだが、はとの同化したものである証拠が幾つか見つかっているほか、が口蓋垂摩擦音または咽頭摩擦音で、が円唇化を伴っていたことは一般に認められ、「、、」、または「、、」がしばしば候補として挙げられている。「印欧語のシュワー」として知られるは、子音間の喉音について広く用いられる。、、、の4種と、その母音化した異音の、、、が知られている。包括記号は"R"。、(、とも表記される)の2種と、その母音化した異音の、が知られている。(長短ともに)はがeの前または後に続いた語形から変化したものであることがしばしば示されている。マイヤホーファーは印欧祖語においておよびが実際はを必ず伴っていたのではないかとしている。印欧祖語には、同じ語根から母音の音素//を対比する特有の母音交替法則が存在している。名詞は三つの性(男性、女性、中性)と三つの数(単数、複数、双数)をもち、また八つの格(主格、対格、属格、与格、具格、奪格、処格、呼格)をとる。屈折により母音幹名詞と非母音幹名詞の二種類に大別される。母音幹名詞の語幹は接尾辞"(呼格では「")によって形成され、母音交替を伴わない。非母音幹名詞は母音幹名詞より起源が古く、母音交替の様態、および早期祖語においてはアクセントの位置でさらに分類される。印欧祖語の代名詞は娘言語において著しく多様化しているため、再建は難しいとされる。また一人称、二人称では人称代名詞が存在するものの、三人称には人称代名詞の代わりに指示代名詞が使われていたことも再建を困難にする一因となっている。人称代名詞はそれぞれ固有の屈折語形をもち、複数の語幹を持つものも存在する。一人称単数が好例で、この区別は現代英語においても"と"として残されている。また、印欧祖語には代名詞のみにみられる屈折語尾が存在し、娘言語では普通名詞でもその活用語尾が採用された。他の代名詞は、ビークスによれば以下の通りである。印欧語族諸言語の動詞体系は一般に複雑で、またゲルマン語派に多数散見されるように母音交替を持つものも多い。これらのうち、古典ギリシア語とヴェーダ語の二言語は、崩壊期直後の娘言語の動詞体系を最もよく保存しているとされる。印欧祖語の動詞は、以下のような法、態、時制、数、人称に従い屈折する。印欧祖語では、動詞は豊かな派生形をもつ。高度に発達した分詞は法と時制ごとに個別に存在し、また使役形、強意形、願望形のような二次的語形も用いられる。ただし正確には、この二次的語形は屈折ではなく、派生である。事実、二次的語形は一部の動詞にしか存在せず、また元になった語との意味の規則的に対応しない。さらに派生の一部としては、動詞的名詞や動詞的形容詞の生成もあげられる。これは、英語でいえば、動詞に接尾辞'や'、"を伴って生成される名詞をさす派生のことである。この派生は分詞と異なり、異なった時制についても同形の語が用いられたようだ。印欧祖語の動詞語幹は、各時制ごとに異なった接尾辞を語根に後接することで作られる。この接尾辞の語形はそれぞれ大きく異なっており、接尾辞相互の関係はほとんど存在しなかったとされる。以下、古典ギリシア語、ヴェーダ語、ラテン語を例に説明する。古典ギリシア語およびヴェーダ語の現在時制は、動詞の語根に接尾辞を後接することでつくられるが、接尾辞は複数あり(ヴェーダ語では10以上、古典ギリシア語では6以上)、またどの接尾辞を用いるかは不規則である。アオリストと完了時制も同様で、アオリスト語幹の生成にはヴェーダ語で7種類、古典ギリシア語で3種類の接尾辞が使われる。同様にラテン語の完了語幹派生には6種類の方式があるが、どの方式で作られるかに規則性は存在しない。また、現在幹と完了幹の生成にあたって、複数の接尾辞が同一の語根に後接される例が存在するが、時制の差以上に意味が異なるものも存在する。古典ギリシア語の代表例をあげると、以下のようになる。後代、これらの種々の方式は一式の屈折変化に合流したが、早期の言語、とくにヴェーダ語では活用変化が不規則なままで、古典ギリシア語でも無秩序なシステムが散見される。結果として、ヴェーダ語の動詞は一見、高い冗長性と説明不能な欠陥を併せ持つ、非常に複雑で混沌とした体系のように見えるのであり、印欧祖語においては、ヴェーダ語をこえる無秩序性が見出されるであろう。印欧祖語の動詞には名詞の屈折と同様、母音幹形式類と非母音幹形式類の2種類が存在する。従って動詞の語幹の判別も、これらの形式によって異なることになる。母音幹形式類では語尾の前の幹母音またはを基準とし、非母音幹形式類では語根に直接付けられた語尾を基準として、語幹が判別される。語幹に付せられる屈折語尾は、少なくとも一人称単数ではとのような異なった語形をとる。幹母音の存在または不存在を除けば、伝統的解釈では語尾の異なる例はこれだけだとされるが、若手の研究者には根本的に異なる活用語尾を示す者もいる。例えばビークスは、古典ギリシア語とリトアニア語をもとに、母音幹動詞の活用語尾について新しい解釈を提案しているが、これらの説には依然議論の余地が存在する。印欧祖語における過去時制(アオリスト、完了、未完了過去)の役割については、古典ギリシア語の過去時制と同様の役割を持っていたとする説と、それを否定する説の両方が存在しているが、ここでは古典ギリシア語とサンスクリット語における過去時制の役割について述べるにとどめる。古典ギリシア語では、過去時制は以下のような性質を持つ。この区別は英語で言うところの過去形、過去進行形、現在完了形の区別にほぼ一致する。ただし古典ギリシア語では、完了時制は過去の行為そのものよりもそれによる現在の状態に焦点を当てており、この完了時制の役割は後に現在時制へと変質していくことになる。ちなみに古典ギリシア語での現在時制、アオリスト、完了時制の違いは、直説法以外(接続法、希求法、命令法、不定法、分詞)では専ら相の違いであって、時制の問題ではない。すなわち、アオリストは単純な行為に、現在時制は現在進行中の行動に、完了時制は以前の行為による現在の状態に関係している。命令法や不定法において、アオリストは過去の行為に用いられない(これらの法では、「殺す」のような一部の動詞はアオリストのほうが現在時制よりも一般的に用いられる)。また分詞において、アオリストは時制か相のいずれかの役割を果たす。直説法以外での相の区別は、印欧祖語における時制の区別に遡るものとされ、さらに古くは中国語のような副詞の使用を起源とするとされている。しかし祖語崩壊期までに、それぞれの時制を表す副詞表現は時制としての用法を獲得し、後の印欧語において、支配的となったように考えられている。一方ヴェーダ語の時制は古典ギリシア語の各時制と比して、といった特徴を有していた(ホイットニー 1924)。また直説法以外では、現在時制、アオリスト、完了時制は殆ど区別されていない。ちなみに、文語において異なる文法形式が意味論的に区別されないとき、その形式の一部が口語では用いられなくなることはしばしば指摘されるとおりである。ヴェーダ語の娘言語である古典サンスクリット語では、接続法が消滅し、希求法と命令法で現在以外の時制が全て失われた。また直説法でも過去の3時制は広く交換可能になり、さらに後代には過去の3時制が分詞の使用で区別されなくなった。この変化はプラークリットの文化の過程を反映しているとみられる。過去時制のうち、プラークリットまで存続したものはアオリストだけであり、これすらも最終的に分詞による過去時制に取って変わられた。印欧祖語の数詞は、一般に以下のように再建されている。レーマンは10より大きい数は祖語中には存在せず、祖語内の幾つかのグループで独自に生み出されたとし、*の意味は100というより「大きい数」だろうとしている。印欧祖語は先史時代の言語であるため当時の文例は存在しないが、19世紀以来、例証のため言語学者によって様々な試みがなされてきた。しかし実際作られた例文は憶測レベルであり、は150年間に及ぶこの試みを批判して、比較言語学は印欧祖語の例文を再建するのは現時点では不可能だと述べている。いずれにせよ、会話の中で印欧祖語がどのような響きを持っていたのか知る程度には役立つかもしれない。公開されている印欧祖語の文章を以下に示す。インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々は、何らかの共同体を作っていたと考えられる。これを原インド・ヨーロッパ民族(原印欧民族)ということもあるが、単一の民族あるいは人種であったという保障はない。19世紀後半以降、特にナチスの時代には、これが「アーリア民族」(本来は原インド・イラン民族のことであるが)の名で呼ばれ、ドイツ人などがその直系の子孫であるかのように喧伝された(アーリアン学説)。ただし彼らの社会がどのようなものだったかは語彙から(また民族学や神話学などの知見も参考にして)ある程度推定できる。彼らの生活様式はほぼ次のように考えられている。牧畜と農耕が主要な生業であった。一部の集団は後に遊牧生活に入り、定住的な牧畜・農耕をする集団の周囲に広がるステップ地域での生活を可能とした。家畜には馬、牛、豚があり、家畜は代表的財産でもあった。のちには車を馬や牛に曳かせて盛んに利用するようになった。海または湖を知っていたが漁業・航海はあまり盛んでなかった。金属はおそらく金・銀を知っていたが、日常的には銅器を使用した(銅器時代)。社会制度は家父長制であり、英語の などの元になった単語は「自分の女」と解釈されることから、族外婚制だった可能性も高い。祭祀、戦士、平民の3階級からなっていた。神々は天にいると考えられ、主神は「父なる神」(ギリシャのゼウス、ローマのユピテルのように;天空神も参照)と呼ばれたと思われる。また「暁の女神」(ギリシャのエオス、ローマのアウロラなど)もこの時代に遡る。「原印欧民族」には、急激な地理的拡大とも相俟って好戦的イメージがつきまとい、昔はこのイメージは称賛された。第二次世界大戦後は一部の人々によってこのような価値観によるヨーロッパ優越思想への反省から、このイメージは野蛮視された。とくに、原印欧民族(ただしこれは誤解を招く表現である)とその文化である家父長制、好戦的傾向、単純な信仰体系をそなえた「クルガン文化」(最初期はケルト語派およびギリシャ語派の文化と思われる)の侵入よりも前の時代すなわち最後の氷河期が終わったあとからヨーロッパに広く住み母系制と複雑な信仰体系を採っていたと思われる「非インド・ヨーロッパ語族」のヨーロッパ原住民すなわち「本当の原印欧民族群」(ギンブタスは「古ヨーロッパ人」と呼ぶ)の諸文化を想定し、好戦的な前者が平和的な後者を次々と支配し現在に至るヨーロッパ社会を形成していったとする「クルガン仮説」を提唱したマリア・ギンブタスらが代表例である。しかし、インド・ヨーロッパ語族の話し手が好戦的文化を持つとすること、場合によってはそれが野蛮なものだとするのは一面的な見方によるものにすぎないという批判的意見も出されている。このようにインド・ヨーロッパ語族の古代の話し手を巡っては、好戦的性質を持っていると捉えた上でそれを好ましくないと見る者がおり、価値観の対立が反映される様相もある。彼らがいつ、どこに住んでいたかは、「原郷問題」と呼ばれ、彼らの社会の様子とともに様々に議論されてきた。例えば「ブナ」「鮭」などの単語から、それらの生息範囲であるドイツ・ポーランド付近が候補とされたこともあるが、これらの単語の意味が昔から変わらなかったという保障はないので、有力な証拠ではない。現在でも決着がついたわけではないが、言語学の立場からはウクライナ・ロシア南東部・カザフスタン西北部周辺のステップと森林が接するあたり、すなわち黒海東北岸地方からコーカサス山脈にかけての一帯とする考えが有力である。ここでは銅器時代に牧畜と狩猟採集を主体とする文化のクヴァリンスク文化が出現、その後これが(おそらく世界でもっとも早い時期の)騎馬文化であるスレドニ・ストグ文化へと発展し、同時代に黒海西北岸で発展していた農耕を主体とする文化のククテニ・トリポリエ文化と互いに接触し合いながら、本格的なクルガン文化であるヤムナ文化へと発展していった。このほか、原郷はアルメニアであったとする説(アルメニア仮説)や、アナトリアであったとする説(アナトリア仮説)もある。時代については従来、新石器時代の紀元前2500年頃(印欧系諸民族が歴史に現れた時代から大きく遡らない時期)が考えられていた。しかし考古学が発展していくと、紀元前4千年紀のウクライナ南部からロシア南東部を一帯を中心とする、クルガン墳墓(墳丘)を建設する文化(クルガン文化)を彼らのものとするマリヤ・ギンブタスの説が1960年代に出された。このクルガン文化のうち最も初めに登場した文化はサマラ文化やであるが、クルガン墳墓が本格的に発展したのはサマラ文化やセログラソフカ文化などを経て出現したヤムナ文化(紀元前3600-2300ごろ)においてであった。同じような時代にコーカサス山脈を挟んで南側に広がったマイコープ文化(紀元前3700-2500)も、より小規模であるがクルガンを築く習慣があった(マイコープ文化では後にクルガン墳墓は積石墳墓の習慣にとってかわった)。この同じ地域の前クルガン時代の文化である銅器時代のスレドニ・ストグ文化(紀元前4500-3500ごろ)もまたヤムナ文化と同様に注目されている。これには以下の事実がある。ヤムナ文化とマイコープ文化の時代、両者の間のコーカサス山脈とアララト平原(後には西のエルズルム平原、南のシリア近辺まで)一帯には、銅器時代から青銅器時代にかけての山岳民の文化であるクロ・アラクセス文化(紀元前3400-2000ごろ、「コーカサス縦断文化」とも呼ばれる)が存在した。この文化も以下の理由で非常に重要な意義がある。その後、紀元前7千年紀(紀元前7000年から始まる千年間)に始まるアナトリアの農耕文化が関係あるとするコリン・レンフルーの説も出されたが、これはあまりに古すぎると批判された(例えば、祖語にあった「荷車」が紀元前7千年紀という古い時期にあったとする考古学的証拠はなく、最も古い荷車の例は上記のクロ・アラクセス文化や、ポーランドにおけるファンネルビーカー文化の陶器の絵のものである)。ギンブタスのクルガン仮説では、中央ヨーロッパ以西におけるインド・ヨーロッパ語族の最初期の文化としてポーランドを中心として北ドイツや西ウクライナなどに広がった球状アンフォラ文化(紀元前3400年ごろから紀元前2800年ごろ)が注目されており、この文化は「インド・ヨーロッパ語族の第二の原郷」とさえ呼ばれている。この文化はマイコープ文化の影響を受けていると指摘する研究者もいる。21世紀に入り語彙統計学的研究から、祖語からまずアナトリア語派が分かれ始めたのが紀元前7千年紀(起源前7000-6001年の期間)であるとする考えが提出され、レンフルーの考えが再び注目されたことがあった。この説ではインド・イラン、スラヴ、ゲルマンなど多くの語派への分化が徐々に始まったのは紀元前4千年紀とされる。考古学的所見と合わせると、という互いに全く異なる2つのシナリオが想定される(ただし移住に際してコーカサス山脈の峠や現在のソチのあたりの黒海沿岸地方を直接経由したのか、それとも黒海西岸を迂回しボスポラス海峡を渡るルートを採ったのかは不明)。原郷をアナトリアとするレンフルーは2を想定しているのであるが、上記のクロ・アラクセス文化の存在とその活発な域外交流の事実が明らかになったことによりコーカサス山脈の北と南の間に常にある程度の人や文物の往来があったことは十分に考えられ、1でもクルガン仮説とは両立するため、黒海北岸・コーカサス北麓原郷説はいまでも主流となっている。
出典:wikipedia
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