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音羽町

音羽町(おとわちょう)は、愛知県の南東部、宝飯郡にあった町である。江戸時代には、東海道の宿場町として栄え、慶応4年(1868年)には三河県の県庁所在地となった。2008年1月15日、豊川市に編入したため消滅した。音羽町は東西9.60km、南北5.78kmで、東北東から西南西に細長く延びる形状をなしていた。標高300~400mの山地が町域の7割以上を占めていた。町内の代表的な山は宮路山である。標高では東端に聳える額堂山(420.4m)や観音山(413.3m)の方が上であるが、古い文献にも名が記され、遊歩道の整備もなされている宮路山の方が知名度は高い。主な河川は、音羽川と山陰川である。音羽川は町の北西部から南部にかけて流れ、御津町を通過して三河湾に注ぐ。山陰川は町の北東部から南部にかけて流れ、町南端で音羽川と合流する。山地の多い本町にあって、これら2河川の流域は盆地として開けており、道路網や住宅街を形成している。音羽川の河谷沿いには、「音羽川断層」と呼ばれる断層が存在する。これは名鉄名古屋本線の美合駅付近から同御油駅付近に至る約14kmの区間を通る断層である。『岡崎市史』では、並行して走る2本の断層の総称として同断層を捉え、「御油断層」と呼んでいる。同様に、山陰川沿いにも断層線が走っており、上流部のいくつかの地点では露頭を見ることができる。太平洋側気候に属し、比較的温暖な気候である。ただし冬場(12月~3月頃)の最低気温に関しては、摂氏0度を下回るのが一般的である。音羽町は、全域が都市計画区域内にあった。市街化区域は174haで、行政区域全体の5.9%。残り94.1%を市街化調整区域が占めていた。詳細は以下のとおり。音羽町における都市計画区域・用途地域の変遷は以下のとおり。「音羽町」の名は、町内を通る主要河川・音羽川から採った。音羽町は、大きく4つの地域に分けられる。後述するように、当町は赤坂町、長沢村、萩村の3町村の合併により成立した。以後、これら3町村の名は大字名として残り、各区域は財産区や消防団の構成単位となった。のちに「三河赤坂台団地」が町中央部(赤坂・萩の一部分)に造成されると、団地内の住所表示は「音羽町赤坂台」に改められた。町廃止後の住所表示は、「大字」の代わりに「町」が挿入され、「字」は削除されることとなった。旧音羽町役場(現・豊川市音羽庁舎)の住所を例にとると、「音羽町大字赤坂字松本250番地」から「豊川市赤坂町松本250番地」に改められた。ただし赤坂台地区内の住所表示は、「音羽町赤坂台○○番地」から「豊川市赤坂台○○番地」となった。「音羽町大字音羽」は無かったため、合併後の豊川市内に「音羽町」は無い。音羽町内では旧石器時代の遺物は発見されていないが、縄文時代や弥生時代には人類が居住していたらしく、萩字中林(現・豊川市萩町中林)で石斧や石鏃が出土している。ただし、貝塚は音羽町内では見つかっていない。弥生時代には銅鐸も多く作られたが、音羽町内では存在が確認されていない。尾張藩の岡田挺之が編纂した『秉穂録』に、赤坂出身の人物が3つの銅鐸が発掘されたのを見た旨が記録されているのみである。赤坂字東山(現・豊川市赤坂町東山)や長沢の毘沙門山では古墳群の存在が確認されており、須恵器や金環が出土した。萩字下林(現・豊川市萩町下林)には下林古墳があり、横穴式石室奥の壁面が現存する。古代律令国家は五畿七道と呼ばれる行政区画を採用し、それぞれの道と都を結ぶ同名の主要幹線には駅家(うまや)と呼ばれる宿駅を置いた。音羽町地域は行政区分としては東海道に属し、幹線道路としての東海道も通過していた。伊場遺跡から出土した木簡には「宮地駅家」の名が記されている。この駅家の位置は必ずしも特定されていないが、宮路山山麓には宮道天神社(みやじてんじんしゃ)の拝殿が位置し、この拝殿の所在地が「宮路」であることから、この付近に宮地駅家が存在した可能性もある。この頃の東海道は江戸時代の東海道とは経路が異なり、宮路山を通過するのが一般的であった。菅原孝標女は宮路山を超えた時の様子を、「あらしこそ 吹きこざりけれ 宮ぢ山 まだ紅葉ばの 散らでのこれる」と『更級日記』に綴っている。また、鎌倉時代に書かれた『東関紀行』には、「矢矧といふ所を出でゝ、宮路山越え過ぐる程に、赤坂といふ宿あり」との記述がある。他に、『海道記』や『十六夜日記』などからも、当時の様子を窺い知ることができる。音羽町西部に位置する長沢は、戦国時代には長沢松平家(松平氏の分家)の所領となった。一族の祖は松平信光(松平氏第3代当主)の子・親則で、長沢城を居城とした。第8代当主松平康直(松平康忠の子)は早世し、その養子松千代(徳川家康の七男)も幼くして死亡した。同じく康直の養子となった松千代の同母兄である松平忠輝(家康の六男)は1616年、徳川秀忠から改易を命ぜられる。これをもって長沢松平家は一旦断絶した。康忠はこれに先立ち、娘と松平忠直との間に生まれた直信を自分の養子とすることにより、一応血筋を残していた。その後も一族は幕府に対して御家再興を幾度も求めたが、埒が明かなかった。しかし直信の孫・親孝が申上書を江戸城の大手門前に放置するという挙に出たことを契機として、ようやく長沢松平家を再び認知する特許が下された。再興後は碧海郡中根村に土地を与えられたが、先祖累代の所領である長沢の地への換地を願い出て、認められた。江戸時代には、東海道の赤坂宿があった。赤坂宿の旅籠には多くの飯盛女が在籍し、「ごゐや赤坂吉田がなけりゃ なんのよしみに江戸がよひ」(中野得信『山家鳥虫歌』)などと詠われた。1718年、幕府は飯盛女の人数を旅籠一軒当たり2人に制限したが、そうした命令はしばしば破られた。参勤交代制の確立に伴い、諸街道の宿駅には本陣が置かれた。交通量の増大は人馬の不足を招き、宿駅近郊ではこれを解消するため、多数の助郷村が生まれた。赤坂宿にも本陣や助郷村が存在した。御油宿と赤坂宿の駅間距離は16町(約1.75km)と、東海道の宿駅の中で最も短かった。関川神社には、松尾芭蕉の俳句「夏農月 御油よ季いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」を刻んだ句碑(1893年建立)が残る。京大教授潁原退蔵の『芭蕉句集』によると、この句は夏の夜の短さを御油-赤坂間の距離の短さに喩えたものである。1868年、赤坂に三河県役所が設置された。同県は翌年廃止され、伊那県へ編入された。さらに1871年には、伊那県の一部が額田県に編入された。大区小区制(1872年施行)に基づき、宝飯郡は県内9大区のうち第6大区に分類され、赤坂村及び萩村は第4小区、長沢村は第6小区とされた。1876年に上萩村、下萩村が合併して萩村が成立した。萩村は8年後に、赤坂村と共同で戸長役場を設置して連合したが、1889年に分離した。1894年6月23日、赤坂村は町制を施行して赤坂町に改組した。明治政府は町村合併を強力に推進したが、赤坂町、萩村、長沢村の3町村は昭和20年代まで廃置分合を行わず、独立して行政運営にあたった。しかし、一部事務組合を設立して青年学校や国民健康保険直営診療所を共同経営するなど、互いに密接な関係にあった。宿駅制は1871年に廃止された。また、1888年には東海道本線が東三河まで延伸し、翌年全通した。陸上交通の主役が鉄道に移ると東海道の利用者は減り、音羽町の地域も次第に衰微していった。しかし愛知電気鉄道(のちの名古屋鉄道)の鉄道路線が開通して、当地域も新交通手段の恩恵を受けた。また、人力車や馬車、自動車が順次普及するにつれて、道路網が全国的に整備されていった。当地域では国道1号が貫通し、舗装整備がされるに至って幹線道路としての重要性を増進させた。1950年代、全国的に市町村合併が進められた(昭和の大合併)。宝飯郡でも町村合併の機運が高まり、愛知県町村合併促進審議会は赤坂町、御油町、長沢村、萩村の2町2村による合併案を提示した。上記2町2村は1953年8月に宝北自治研究会を設立(翌年11月、宝北町村合併研究会に改称)して協議を重ねたが、御油町内には豊川市との合併を望む声があり、容易に結論は出なかった。結局、1955年2月25日に御油町を除く1町2村のみで合併協議会を設立し、およそ1か月後の4月1日、正式に合併して「音羽町」となった。初代町長には、旧長沢村長の渡邊隆次が就任した。新町成立後も、音羽町は御油町に合併を呼び掛け、「合併実現の暁には、新町の名称を御油町としてもよい」とまで譲歩した。しかし住民投票の結果、合併相手として豊川市を希望する票が音羽町を希望する票を上回ったため、御油町は豊川市との合併を選択した。1958年、音羽町は「音羽町の建設計画・調整計画」を策定し、農業経営の合理化によって生じた余剰労働力を第二次・第三次産業に振り向ける方針を明らかにした。1960年、町議会は「音羽町工場設置奨励条例」を制定し、翌年東海理化電機製作所の工場誘致に成功した。1966年に操業を開始した同社の音羽工場は、雇用・財政の両面で町を大いに潤した。1986年、東名高速道路音羽蒲郡インターチェンジと音羽蒲郡有料道路が開通した。利用台数は年々増加を続け、2000年度には音羽蒲郡ICが5,974,267台(1日平均16,368台)、音羽蒲郡有料道路が1,736,305台(1日平均4,757台)を記録した。1970年代前半に「三河赤坂台団地」をはじめとする住宅団地を造成したことにより、町の人口は大きく増加したが、1983年の8,537人を境に漸減した。1990年代に入ると、住宅団地「グリーンヒル音羽」「サンヒル赤坂」造成後の1998年に再び増加に転じ、音羽町最後の年度である2007年度に9,000人を達成した。2000年代に入ると、再び全国的に市町村合併の動きが広がった(平成の大合併)。宝飯郡を構成する4町(音羽町、一宮町、小坂井町、御津町)と豊川市は、2001年に合併協議会を設立して、対等合併の可能性について検討作業を始めた。それから2年余りのちの2004年2月、合併の是非を問う住民意識調査が上記1市4町で実施された。音羽町では有効票数5,299票のうち賛成が2,838票(全体の53.56%)と過半数に達した。また、豊川市は68.23%、小坂井町は53.97%と、3市町で賛成票が過半数を占めた。しかし、一宮町では賛成が44.87%、御津町では30.64%となり、反対票が賛成票を上回った。この結果を受け、1市4町の合併協議会は解散した。その後、一宮町は独自に豊川市との合併協議を進め、2006年2月に正式合併を実現した。音羽町は、町長の任期が2008年1月に終了することから、それまでに合併を実現することを検討した。これに御津町も加わり、2007年6月に豊川市・音羽町・御津町合併協議会を設置。7か月余りのちの2008年1月15日、豊川市と合併した。ここに音羽町は廃止され、52年9か月の歴史に幕を下ろした。小坂井町も2010年2月に豊川市に編入されたため、結果的に1市4町の合併は成立したことになる。音羽町の人口は、1955年の町制施行時点で5,439人であった。以来15年ほどは、5,400人前後で推移していた。1970年代前半に「三河赤坂台団地」をはじめとする住宅団地を造成したことにより、人口は大きく増加したが、1983年の8,537人を境に漸減を続けた。1990年代に入ると、「グリーンヒル音羽」「サンヒル赤坂」造成後の1998年に再び増加に転じ、音羽町最後の年である2008年に9,000人を達成した。国勢調査によると、2000年から2005年の人口増加率は約9.7%となり、愛知県内では3番目の高い増加率を記録した。2005年の高齢者人口(65歳以上)は1,644人で、総人口比は18.9%であった。1995年の1,136人(14.6%)に比べ、人数、比率共に上昇している。2007年4月1日現在、当町の人口は8,839人、世帯数は2,770世帯、1世帯当たりの人口は約3.19人であった。町内の外国人登録者数は96人(2005年12月31日現在)で、絶対数は多いとはいえないものの、年を追うごとに人数が増加している。中でもブラジル人の増加が著しい。内訳とその推移は以下のとおり(単位:人)。14代7名が音羽町長を務めた。歴代町長の在任期間は、以下のとおり。※「+」印は、在職中死去。音羽町役場庁舎は、過去4箇所(いずれも赤坂地内)に設置された。2006年度決算によると、一般会計の歳入総額は約29億7,009万円、歳出総額は約28億4,761万円であった。歳入の内訳は金額順に、町税約16億7,613万円(56.4%)、町債約2億4,780万円(8.3%)、県支出金約1億3,449万円(4.5%)など。歳出の内訳は、民生費約6億6,187万円(23.3%)、総務費約4億8,430万円(17.0%)、土木費約4億1,264万円(14.5%)など。町債残高(元金)は、一般会計分は34億6,350万円、特別会計・企業会計分を含めると48億828億円。音羽町議会の議員定数は10人。1959年の町議選時には定数は22人とされたが、1967年の町議選から16名に、1999年の町議選から12人に削減された。さらに2006年12月、財政改革のため2人削減するとした条例案が町議会で可決された。2007年4月22日実施の統一地方選挙(音羽町としては最後の町議選)で、新条例に基づき10人の議員が選出された。音羽町は豊川警察署の管轄区域とされていた。町内に交番は存在せず、駐在所(赤坂駐在所、長沢駐在所)を置いていた。長沢駐在所は1975年に名電長沢駅前から、赤坂駐在所は1979年に赤坂字紅里から移転した。(所在地の住所表示は豊川市との合併後のもの)消防は市町村の責任業務であるが、音羽町は行政区域内に消防署や分署を置かず、1981年より豊川市消防本部へ業務を委託していた。音羽町は、小学校区を基本とする3つの分団からなる消防団を置いていた。豊川市との合併後、音羽町消防団は豊川市消防団第6方面隊に再編され、第1から第3まであった分団の名称は順に萩分団、長沢分団、赤坂分団に変更された。2005年の音羽町消防団の団員数は、74人。衆議院小選挙区では、音羽町は愛知県第14区に属していた。音羽町として最後の衆院選となった2005年9月11日の衆院選における、音羽町での投票率、各候補者の得票数などは以下のとおり。投票総数5,504票、うち有効投票数5,419票2005年の音羽町の就業者総数は4,603人。うち第一次産業就業者数が303人で全体の6.58%、以下第二次産業1,937人(42.08%)、 第三次産業2,316人(50.32%)となっており、第三次産業就業者数が最も多かった。音羽町では、製造品出荷額等が農業粗生産額や年間商品販売額を大きく上回っていた。同じ宝飯郡の御津町や小坂井町と比較しても、製造品出荷額等が小坂井町・御津町を上回っており、第二次産業に強みを持つ産業構造であったといえる。ただし工業系事業所数(従業者10人以上)は、小坂井町の65、御津町の79に対して音羽町は27に留まっており、従業者300人以上の事業所は町内に1か所(東海理化電機製作所音羽工場)のみであった。トヨタ自動車系の企業である同社の工場は音羽町の製造品出荷額等の過半を占めており、町の経済は同社に大きく依存していた。以下は3町を比較した表である。農業人口は一貫して減少傾向にあった。1975年と2000年を比較すると、農家数は656戸から424戸に、農業従事者数は2,024人から1,168人に減少した。殊に養蚕業は、合成繊維の普及や中国産や韓国産の安価な生糸の流入が影響して、衰退の一途をたどった。音羽町の農業の中心は稲作であった。音羽町は1966年に東三河農業経済県樹立地域の、1967年には米と野菜を基幹作物とする改善事業計画地域の指定を受けた。西三河生活協同組合などの消費者団体は1988年、安全な米を食卓に提供すべく減農薬運動を展開し、生産者側の協力を求めた。これに賛同した音羽町の農家が集まり、1989年「音羽米を育てる研究会(1992年、「音羽米研究会」に改称)」を設立し、減農薬米「音羽米」の生産を開始した。消費者団体は、音羽米を積極的に食べることによって生産者を支援するため、1992年に「音羽米を食べる連絡会」を設立した。この取り組みは音羽町廃止後も継続し、同研究会は旧音羽町内の4保育園全ての給食用に音羽米を納入しているほか、ネット通販を活用して販路拡大を図っている。自然薯や椎茸が特産物とされる。旅籠大橋屋では、自然薯を使ったとろろ汁が供される。主な農作物の収穫高(2005年)は、米651t、大根105t、さつま芋76t、青刈りとうもろこし57t、玉葱46t、じゃが芋35tとなっている。町制施行後も独立したままであった赤坂・長沢・萩の各農業協同組合は、1963年に合併して音羽町農業協同組合となった。以後、同農協が町全域の農協業務を担っていたが、1990年に豊川市などの農協と合併してからは、新たに誕生したひまわり農業協同組合が業務を継承している。ひまわり農協は1991年、農産物等の直売所「グリーンセンター音羽」を開設した。2005年の農家数は、赤坂92戸、長沢133戸、萩167戸、町全体では392戸。2005年時点の農地面積は 262ha(町域全体の約8.8%)であった。内訳は以下のとおり。2005年時点の農業粗生産額は約 2億9000万円であった。内訳は以下のとおり。1980年の林家数は547戸であったが、2000年には191戸に減少した。小規模の林家(所有する森林面積が5ha未満)が大半を占めるが、2000年の調査では、こうした林家の戸数が激減している。森林面積は、1980年の2,233haに対して2000年に2,171haと、林家数ほどの大きな変化は見られない。音羽町は1961年、東海理化電機製作所の工場誘致に成功した。1966年に操業を開始した同社の音羽工場は、音羽町内で最大の事業所となった。1971年には、イソライト工業の子会社「イソライト・バブコック耐火」が新本社工場を萩に建設した。1986年に東名高速道路音羽蒲郡インターチェンジが開通したことにより、交通の利便性が向上し、これまでに比べて企業を誘致しやすい環境が整った。程なくして萩に造成された工業団地には日本トレクスやPPGジャパンが進出し、また東海理化電機製作所は町内で2か所目となる工場をこの工業団地に建設した。2004年の音羽町の商店数は74(卸売業の店舗12、小売業の店舗62)、従業者総数は492人。年間商品販売額は109億1,463万円であった。愛知県道374号長沢国府線(旧東海道)沿いに個人経営の小規模店舗が多く立地しており、これが音羽町における商店の中心であったが、音羽蒲郡インターチェンジ及び音羽蒲郡有料道路(三河湾オレンジロード)の開通後は、両路線の出入口に相当する国道1号の交差点脇に、法人経営の店舗も開店している。製造業物流拠点金融機関その他音羽町は1963年、豊川市など近隣市町とともに一部事務組合「豊川宝飯衛生組合」を組織して、屎尿の広域的処理を開始した。1975年12月に下水道事業認可を受けて以来、順次公共下水道整備工事を進め、2003年度に市街化区域のほぼ全域を整備した。翌年度からは、市街化調整区域のうち市街化区域に隣接する部分の整備を開始した。2004年度末現在の汚水処理人口普及率は77.8%。1990年からは、浄化槽整備費補助を開始し、2003年度末時点で169基に補助を実施した。また、生ごみ排出量を減少させるため、生ごみ処理機や生ごみ堆肥化容器の購入費補助を実施した。2003年6月からは、「公共施設養子縁組制度(アダプト・プログラム)」を導入した。市民は道路や公園の「里親」となって美化に努め、行政側はごみ袋の提供などの支援を行う。同制度は、町廃止後も豊川市が継承している。音羽町内の指定文化財は、以下のとおり(「指定者」「所在」及び「所有者」欄の表記は、豊川市との合併前のもの)。町内には3つの小学校、1つの中学校(いずれも公立)が存在する。萩小学校は、その校区が市街化調整区域内であることから、児童数は減少している。赤坂小学校は、1975年に「三河赤坂台団地」の造成が行われたことにより児童数が急増したが、1990年代に入ると再び減少に転じた。長沢小学校は、1994年の「グリーンヒル音羽」の造成により、児童数の増加がみられる。3小学校全体でみると、1995年に498人であった児童数は2001年に438人にまで減少したが、その後は増加に転じ、2005年時点では532人となった。緑豊かな環境にあることから、巣箱の製作や枝打ちの体験を教育に取り入れている。音羽町の幹線道路は国道1号である。愛知県道374号長沢国府線(旧東海道)は、地域住民の生活道路として、あるいは国道1号の渋滞時の抜け道として利用されている。ほかに、名鉄名古屋本線と東名高速道路が走る。これら4本はほぼ並行して敷設され、町の南部から北西部を貫いている。北東部から南部にかけては山陰川に沿って愛知県道332号大代音羽線が通り、上記4路線と併せて概ねV字型に開いた道路網を形成している。音羽蒲郡インターチェンジから南西方向には音羽蒲郡有料道路(三河湾オレンジロード)が延びる。同路線の開通によって、蒲郡市との行き来が容易になった。音羽町廃止時点で未供用の道路としては、新東名高速道路がある。同路線は町域東端の山林をわずかにかすめるに過ぎず、旧音羽町民にとっての利便性向上の可能性は薄い。しかし、これを建設するための作業用道路として愛知県道332号大代音羽線のバイパスの建設が進められており、将来はこれを新たに大代音羽線とする予定である。同バイパスによって置き換えられた区間は豊川市道とされ、管理者が豊川市に変更されることになる。2005年現在、町道の総数は549本、実延長合計は135,042m、舗装率は73.2%、改良率は60.2%であった。

出典:wikipedia

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